【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(26)軍政家・山本五十六の実像(下)三国同盟反対は組織防衛から

受け入れ難かった陸軍の対ソ戦シナリオ

米内光政海相(左)と山本五十六次官
米内光政海相(左)と山本五十六次官

2次交渉に関与せず

昭和11年12月、山本五十六は廣田弘毅内閣の海相となった永野修身(おさみ)に請われ、海軍次官に就任する。その6日前(11月25日)、日本はドイツと防共協定を締結、翌年にはイタリアが加わり三国防共協定となった。3年9カ月にわたり山本が海軍次官の職にあった間、この防共協定を事実上の軍事同盟へと強化する動きが生まれる。山本は永野の後任となった米内(よない)光政海相、井上成美軍務局長と共に、身を挺(てい)して三国同盟に反対したと今日では理解されている。しかし、実態は必ずしもそうではなかった。

三国同盟締結の動きは、1次と2次に分けて考える必要がある。第1次交渉は、昭和13年夏から14年夏にかけての三国防共協定強化の動きである。これは、独ソ不可侵条約の締結(14年8月)で頓挫した。続く第2次交渉は、昭和15年夏から三国同盟が実際に締結された同年9月までを指す。このうち三国同盟の是非を巡り論議が沸騰したのは、ドイツの破竹の勢いに幻惑され締結を強く迫る陸軍に対し、対米戦誘発の危惧から海軍が反対し鋭く対立した第2次交渉の時である。この時、既に山本は海軍次官の職を離れ、連合艦隊司令長官として海に出ており、第2次交渉には全く関わっていない。

井上成美軍務局長
井上成美軍務局長

山本が海軍次官だった当時の第1次交渉では、防共協定を強化し対ソ包囲網を形成することが主な目的とされ、対米戦問題はさほど意識されなかった。端的に言えば陸軍が北進するための同盟締結であり、米内や山本が反対したのは、独伊への接近で英米を刺激することよりも、陸軍の思惑に乗せられ海軍が対ソ戦に引き摺(ず)り込まれることを嫌ったからである。

大陸での戦争となれば、陸軍が主で海軍は従となる。英米を睨(にら)み南に目を向ける海軍からすれば、北進は受け入れ難いシナリオだ。しかも陸軍の強化が優先され、海軍の予算は削られるため、米海軍相手に軍備の大幅増強を目論(もくろ)む海軍の思惑は狂ってしまう。海軍の反対は組織防衛の側面が強く、対英米関係の悪化が反対の主な理由ではなかった。山本の反対も陸軍への消極的抵抗だった。英米戦回避のため自ら積極的に陸軍に働き掛けた事実はない。

英米協調意識希薄に

日英同盟はとうに破棄され、さらに軍縮会議で海軍は英米に不本意な結果を強いられた。山本にとっても忘れ難い屈辱の記憶である。そのうえ南進を考える当時の日本海軍にとって、英米はその途(みち)を塞(ふさ)ぐ障害となる。昭和14年2月、米内海相の下で海南島を武力占領し南に歩を進めたことからも、英米協調の意識が海軍から薄れていたことがうかがえよう。

右翼が山本を付け狙い、山本も遺書を準備していたのは事実だ。だが、陸軍に逆らったため右翼に脅され命を狙われた者はほかにも大勢いた。戦後、山本を語る際にこのエピソードが強調され、対米戦回避のため命を賭して同盟締結に反対したというイメージが生まれ、さらにそれを作家・阿川弘之が喧伝(けんでん)し、通説化させたのではなかろうか。

阿川は、米内、山本、井上の海軍三羽烏(さんばがらす)が同盟締結に逸(はや)る陸軍の前に立ちはだかったかに書くが、3人がトリオを組んでいたのは第1次交渉の時で、それも僅(わず)か1年10カ月にすぎない。しかも当時は、陸軍も同盟締結に未(いま)だ慎重な姿勢を取っていたことを付言しておく。

第2次交渉の頃には既に英独が戦端を開いており、同盟を結べば英米を刺激することは明らかだった。その一方、三国同盟にソ連も組み込めば英米を牽制(けんせい)できる。北に備え南に出やすくする同盟とも言えた。締結を迫る陸軍に対し、対米英戦に自信が持てない海相吉田善吾は強く反対した。しかし病に倒れ、後任の海相となった及川古志郎は陸軍に屈する。

及川古志郎海相
及川古志郎海相

昭和15年9月15日、及川海相は海軍首脳を集め、海軍として三国同盟締結已(や)む無しの意見集約を図った。もし海軍が反対すれば、近衛文麿(このえふみまろ)内閣は総辞職に追い込まれる。内閣崩壊の責任を自分は負い得ないというのが理由だった。会議では伏見宮軍令部総長が「ここまで来たら仕方無いね」と発言し、異論を抑えた。

戦略家の顔が前面に

会議の最後で山本が立ち上がり、自分は大臣の統制に絶対に服従する者であり異論を挟む考えは毛頭無いが、唯(ただ)一点、心配に絶えぬ点があり、それを尋ねたいと切り出した。そして「自分が海軍次官だった当時、企画院の物動計画では8割が英米勢力圏からの資材で賄われることになっていた。三国同盟を締結すればそれは失われるので、不足を補うためどのように物動計画を変更したのか聞かせてほしい」と及川に迫った。

現状では航空兵力が不足しており、陸上攻撃機を2倍にせねばならないと発言したとも伝えられる。「対米戦には戦闘機千機、中攻千機が必要」というのが山本の持論だったが、日本の生産力で陸攻を2倍に増やすなど不可能なことは誰よりも彼がよく知っていた。これに対し及川は、「色々御意見もありましょうが、この際は三国同盟に御賛成願いたい」と答えるのみだった。

第2次交渉の際、公の場で山本が三国同盟に関し自身の考えを吐露したのは、巷間(こうかん)伝えられる限りではこの一度だけである。山本の反対は、英米協調や親米派の立場からではなく、海軍を率い米国に戦いを挑む立場の最高司令官としての不安に拠(よ)るものだった。この3日前、近衛首相に懇請され対米戦の見通しを聞かれた山本は、「是非やれと言われれば、半年や一年は暴れて見せますが、二年三年となっては全く確信が持て」ないと戦争回避の努力を求めた。その一方、彼の胸中では、米国に勝つための秘策が育ちつつあった。かくて軍政家に代わり、戦略家・山本五十六の顔が前面に躍り出ることになる。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

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