防御軽視、戦闘機より攻撃機重視

軍縮会議契機に本腰
山本五十六が軍政面で力を注いだ分野に航空機がある。元来砲術屋であった山本が航空機に関心を持ったのはハーバード大学に留学中、当時の米国駐在武官で海軍の航空機開発を主導した上田良武大佐の薫陶を受けた時といわれる。
帰国後、海軍大学校の教官になった山本は戦艦と航空機の攻防を論じ、将来の航空戦力の重要性を説いている。だが彼が航空機の開発・整備に本腰を入れるようになった最大の契機は、前回取り上げた軍縮会議だった。ワシントン軍縮会議で日本は対米7割を確保できず、自ら参加したロンドン軍縮会議でも対米7割を下回る不本意な結果に終わった。
そこで、軍縮の対象とならない航空機を対米戦必勝の切り札と考えたのである。軍令部勤務を経験せず海軍では傍流の山本が自らの将来を賭す上でも、航空という未知の分野は魅力的であった。さらに言えば、山本が海軍の公式教義であった“大艦巨砲主義”に抗(あらが)うかのように航空主兵主義を掲げたのは、海軍の戦略を司(つかさど)る軍令畑に加われなかったことへの自身のコンプレックスも影響していたように思われる。
山本は自ら航空職域を志願、大正14年に霞ヶ浦航空隊の教頭となり、一匹狼(おおかみ)で職人芸的な技量を誇る搭乗員らを鍛え直し、航空部隊の組織づくりに注力した。駐在武官として再び渡米するが、当時ミッチェル大佐の空軍独立論や戦艦無用論が米国で話題に上っていた。その議論にも刺激を受けたと考えられる。

帰国後、山本は一線部隊と開発部門の双方で一層航空機に深く関わるようになる。特に航空本部技術部長の時には、互いに競わせる形で民間企業の育成を図り、国産航空機の開発体制整備に尽力。また艦艇の対米劣勢を補う戦力として、陸上基地から発進し米戦艦を雷爆撃できる航続距離の長い爆撃機(中攻)の開発を主導した。
日本海軍の漸減邀撃(ようげき)戦略では、日本近海での戦艦同士の艦隊決戦で雌雄を決する前に、米太平洋艦隊の戦力を少しでも減殺させるため、より前方の海域で潜水艦等補助艦による夜戦とともに、航空機による反復攻撃が想定されていたからだ。
山本や松山茂航空本部長による中攻のアイデアが、九六式陸上攻撃機やその後継の一式陸上攻撃機の誕生に繋(つな)がった。山本が航空本部を離れ海軍次官に就任した翌年(昭和12年)、海軍は三菱重工業に新型戦闘機十二試艦上戦闘機の開発を指示した。後の零式艦上戦闘機である。山本が直接零戦の開発を指揮したわけではないが、彼の努力があって海軍における国産航空機の開発体制が軌道に乗ったことは間違いない。
搭乗員不足が深刻化
太平洋戦争初頭の凱歌(がいか)は、山本が説き、かつ実践に努めた航空主兵主義の輝かしい成果であった。真珠湾攻撃とマレー沖海戦における日本の鮮やかな勝利は、それまでの戦争の常識を覆した。列国は戦艦が航空機には勝てないことを思い知らされ、戦艦主体の戦略から航空機と空母を主体とする戦略へと切り替えていくのである。

かように山本五十六は、戦間期において航空機の重要性を説いた第一人者であると同時に、海軍航空を世界最強の戦力に仕上げた最大の功労者と言える。だが半面、彼の方針は問題や弊害も残した。
戦前の日本海軍では攻撃重視の発想から、戦闘機よりも攻撃機を重視する立場が力を得るようになった。当時、九六式陸上攻撃機に九五式戦闘機が追い付けない状況があり、攻撃機は速度も航続距離でも戦闘機を凌(しの)いだ。しかも攻撃機は防護機銃を備えており敵戦闘機の攻撃も排除できると考えられたからだ。戦闘機無用論まで主張された。
中攻開発を主導したことからも窺(うかが)えるように、山本は戦闘機よりも攻撃機を重要視する派の代表格だった。山本技術部長の下で昭和11年度から戦闘機搭乗員の養成比率は大幅に引き下げられ、戦闘機隊も半分以下に縮小された。
士官搭乗員の養成数を見ると、昭和4年から同10年までの7年間の卒業者218人中、戦闘機要員は43人で全体の約20%を占めていたが、昭和11年以降は13%に激減してしまった。だが日華事変で、中国の戦闘機に最新の九六陸攻が100機以上撃墜され、援護戦闘機を伴わない攻撃機の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈した。さらに太平洋戦争に突入すると、戦闘機の部隊や搭乗員の絶対的な不足が深刻な問題となる。
航空白兵主義を招く
そもそも攻撃絶対主義を唱える日本海軍は、攻撃機開発に当たり爆弾や魚雷の搭載量を最大化することを至上命題とし、機体や搭乗員の防御を無視した。圧倒的な攻撃力があれば防御は不要という発想だ。山本もその路線を強く支持し、さらに加速させた。そのため、援護戦闘機のない攻撃機は敵戦闘機の攻撃や水上艦の対空砲火を受けると忽(たちま)ち火を噴いた。世界屈指の戦闘機零戦は重い20ミリ機銃を2門搭載したが、機体軽量化のため防御が無視されたのは攻撃機と同様だった。
対米戦において海軍航空隊は勇ましく敵艦隊に突入したが、陸兵の切り込みと同様、次々に撃ち落とされ、徒(いたずら)に優秀な搭乗員と航空機を喪失させていった。攻撃ばかりに目を奪われ、援護戦闘機や機体防御の必要性を無視した発想が、航空機や搭乗員の急速な消耗による航空戦力の著しい低下を招いたのである。水上艦艇の劣勢を補うべく航空機を対米戦の中心に据えた山本は、海軍戦史に新たなページを開いたが、同時に彼の進めた防御徹底軽視の路線が航空戦力の早期瓦解や航空白兵主義を招いたのである。その行き着く先が特攻であった。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三