【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(24)軍政家・山本五十六の実像(上)曖昧だった軍縮への姿勢

「条約派」粛清で海軍中枢に進出

山本五十六と堀悌吉(1910年代)

“悲劇の名将”像定着

山本五十六に対する戦後の評価は、概(おおむ)ね肯定的である。即(すなわ)ち、親英米の山本は海軍の良識派に属し軍縮の実現に努力、また対米戦を避けるため日独伊三国同盟締結に強く反対した。だが思いは叶(かな)わず、それどころか対米戦の最高責任者を命じられる。己の信念と職責の相克に苦しみながらも、卓越した戦略家の山本は日本が対米戦で勝利し得る唯一の方策として真珠湾作戦を発案、万難を排し奇襲攻撃を成功させ世界戦史に名を遺(のこ)す大戦果を挙げた。

だが不運にもミッドウェイ海戦で敗北し、初戦の優位は失われる。戦局を立て直すため自ら最前線に赴き一線部隊の指揮を執るが、敵機の攻撃を受け壮烈な戦死を遂げる。最後まで平和を願いながらも、一旦(いったん)開戦となれば最も勇ましく戦い、散った“悲劇の名将”。また情に厚く部下思いで、「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」の格言も残しているように人使いの名手であった。

こうした山本五十六像が定着しているが、太平洋戦争の再考に当たり、開戦前から戦争前半を指揮した山本五十六について軍政、軍略の両面から光を当て直してみたい。

壮年期まで目立たず

山本五十六は明治17年4月4日、JR長岡駅に程近い玉蔵院町(現・長岡市坂之上町)で、旧越後長岡藩士高野貞吉の六男に生まれた。長岡中学を経て明治34年に海軍兵学校に合格、成績は2番だった。しかし入校後、成績はトップクラスを維持できず、卒業時の席次は192人中11番。既に日露戦争が始まっており、内地での練習航海を経て巡洋艦日清に配属され、日本海海戦に参加。前甲板主砲砲身の破裂で負傷し、左手の中指と人差し指を失う。

ロンドン滞在中の山本五十六(中央、1934年)

大正2年海軍大学校に入学、在校中に旧長岡藩家老の山本家を継ぐ。大正8年から10年までハーバード大学に留学、全米各地を見て回るが英語の成績は最低評価だった。帰国後霞ケ浦航空隊教頭として若い搭乗員の育成に当たるが、大正15年駐在武官として再び米国勤務を経験する。以後昭和3年から10年にかけて空母赤城艦長、海軍航空本部技術部長、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長と航空職域を歴任。その間、昭和4年にロンドン海軍軍縮会議全権委員の随員として渡英、昭和9年には第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の代表を命じられるが交渉は決裂。帰国後、永野修身(おさみ)海相に請われ昭和11年、海軍次官となる。

こう書くと輝かしい経歴を重ねたかに見えるが、必ずしもそうではない。後年の存在感の大きさを考えれば意外だが、青年期から壮年にかけての山本は一頭抜けたエリートとの評価を得ていない。寡黙で真面目だが同期の中でも目立つ存在ではなく、特段のエピソードも残していない。山本はトップクラスが必ず配属される軍令部に勤務した経験もない。海軍の本流ではなかったということだ。

山本の生家に残る勉強部屋

山本の存在が広く知られるようになったのは軍縮会議に参加した頃だが、ロンドン軍縮会議の随員に選ばれたのは、同期で無二の親友、堀悌吉(ていきち)軍務局長の強い推薦があったからだ。堀は海兵・海軍大学ともに首席で卒業した俊英で、彼の頭脳は“海軍の宝”とまで言われた。

大正から昭和初期にかけて、海軍の軍備制限を目的に一連の軍縮交渉が続けられた。当時日本海軍内部では、英米との協調を重視し軍縮条約締結を容認する条約派と、米国に勝つには対米7割の海軍力が必要でそれを下回る条約を容認しない艦隊派と呼ばれた英米強硬派が対立していた。堀は、条約派の筆頭格であった。

ワシントンの軍縮会議で、米英日の主力艦(戦艦)と空母の保有比率が5・5・3と定められた。首席全権加藤友三郎は対米6割の制限を受け容(い)れたが、艦隊派は強く反発。次いで補助艦制限を目指すロンドン軍縮会議が開かれた。会議は難航するが、英大使松平恒雄と米全権上院議員リードの話し合いで妥協が成立、首席全権若槻礼次郎は海軍随員らに諮ることなくこれを容れ、再び7割を下回る内容で決着した。

対米7割に固執する山本は、財部(たからべ)彪(たかし)海相に再度の交渉を具申し、若槻に退けられている。この時、大蔵省随員の賀屋(かや)興宣(おきのり)(開戦時の蔵相)が財政上の制約に触れると、いきなり山本は「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴り付けている。この逸話からうかがえるように、山本は明確な対米7割論者で、財部に再考を迫った強い姿勢が艦隊派から評価された。

本国指示に従う官吏

ところが「妥協案を受諾せよ」の訓令を受けるや、なおも反対を叫ぶ他の随員らの説得役に回っている。山本は堀のように政治的識見を発揮する条約派ではなかったが、政府の方針に逆らう強硬な艦隊派でもなく、本国の指示に従い対米7割を心中に押し留(とど)める忠実な官吏だった。また艦隊派頭目の軍令部総長伏見宮に対する彼の態度も終生曖昧なものだった。

昭和9年の大角(おおすみ)岑生(みねお)海相の人事で、山梨勝之進や左近司(さこんじ)政三(せいぞう)ら条約派が予備役に追い込まれた。だが先の強硬な態度が艦隊派に歓迎されたためか、山本は粛清に遭わず第2次ロンドン軍縮会議予備交渉では代表に選ばれている。もっとも政府は交渉の決裂を見越し、海軍も無条約時代に目を向けていた。

山本のロンドン滞在中、堀悌吉が艦隊派の策謀で海軍を追われる。失意に浸る山本は自らも海軍を辞すると言いだすが、英米協調を説く条約派の指導者が相次ぎ海軍を去ったことが彼の出世に幸いした。彼らの抜けを埋める形で山本五十六は海軍次官に栄進、中央の舞台に躍り出る機会を得たのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

spot_img
Google Translate »