【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(23)山本連合艦隊司令長官の死(下)死を覚悟しての前線視察

航空部隊と共に散るのが本望

山本五十六記念館(長岡)に展示された山本長官搭乗機の左翼残骸

司令部ラバウル進出

人の好き嫌いが激しい山本五十六は、作戦参謀の黒島亀人を異常なまでに重用する半面、最側近の宇垣纏(まとめ)参謀長を常に遠ざけ、ほとんど口も利こうとしなかった。だが、ガダルカナル島からの撤退後、作戦の行き詰まりから山本は心機一転を期すべく黒島の更迭を決意し、それを境に疎遠だった宇垣との距離を縮めるようになった。

それまで無視され続けてもひたすら耐えてきた宇垣は、山本との関係改善を素直に喜び「一度前線に赴き兵士の士気を鼓舞されてはどうか」と意見具申し、これを山本が容(い)れた。

日比谷公園で行われた山本五十六連合艦隊司令長官の国葬(昭和18年)

山本が将旗を前戦に進めたのは、い号作戦の指揮権問題も関わっていたといわれる。空母艦載機を率いる小沢治三郎第3艦隊司令長官と基地航空部隊を束ねる草鹿(くさか)任一(じんいり)第11航空艦隊司令長官は海軍兵学校の同期だが、先任序列の関係で草鹿が全体の指揮を執ることになる。だがそれでは、プライドの高い空母搭乗員が基地航空部隊の指揮下に入ることに不満を示すのではとの懸念から、山本自らが指揮を執ることで落着したという。小沢と草鹿の関係が良好でなかったことを指摘する向きもある。

かくて連合艦隊司令部は、初めてラバウルに進出することになった。もっとも、内心山本は、最高司令官は後方に陣取り全体の指揮を執るべきだとの考えを持っており、前線に赴くことには消極的だった。ところが、宇垣参謀長がい号作戦の終了後、幕僚を伴いブーゲンビル方面を視察すると聞くや、突然山本は「僕も行くからね」と言い出した。ラバウルに出向くことさえ厭った山本が、なぜ急に危険な最前線視察を決意したのか。

あえて危険な戦場に

特攻出撃する宇垣中将

昭和17年9月、山本五十六は海兵入学以来の終生の友である堀悌吉(ていきち)元海軍軍務局長に宛てた手紙で

「あと百日の間に小生の余命は全部すり減らす覚悟で御座候己を虚しゅうせずしては、部下に死ねと命は下しまじく」

と綴(つづ)っている。同じ頃、

「若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦いてやがてあと追ふわれなるぞ」

の長歌も残している。

さらに山本がトラック島からラバウルに赴いた当日の昭和18年4月3日に詠んだ歌がある。最後の作といわれる。

「すめらぎの御楯とちかふま心はととめおかまし命死ぬとも」

ラバウルでの山本はい号作戦の期間中、連日出撃する航空機を飛行場で見送った。搭乗員らは風防を開き、滑走路脇に立ち右手に高々とかざした帽子を振る山本五十六連合艦隊司令長官の姿に敬礼し、飛び去って行った。全機が離陸を終えるには、相当の時間を要する。しかし山本はその間、直立した姿勢を微動だにせず、帽子を振り続けた。

最後の一機が離陸し、上空で先発機と編隊を組み、やがてその姿が見えなくなるまで山本は動こうとしなかった。そして搭乗員らが山本を見たこれが最後の姿となる。

早晩、戦線を引き下げざるを得なくなる厳しい戦況の下、捨て駒となって南方の空に散っていくであろう搭乗員らに一目自分の顔を見せてやりたいとの思いが湧いたか、あるいは、敢(あ)えて危険な戦場に赴き、自らの死地を求めたのか。ラバウルで多くの搭乗員の姿に直接触れ、船ではなく自らが育てた海軍の航空部隊と共に空に散るのならば本望と思っていたのではあるまいか。

山本がブーゲンビルで戦死を遂げた4月18日、奇(く)しくもそれはちょうど1年前にドーリットル中佐率いる爆撃機隊が突如日本本土を空襲し、国内に強い衝撃を与えた日であった。そして山本が強く主張するミッドウェイ作戦に対し、強く反対していた軍令部が同意へと転じる契機となった日でもある。

国民に山本五十六大将(死後元帥)の戦死が公表されたのは、戦死から一月以上も経過した昭和18年5月21日だった。6月5日、日比谷公園で国葬が執り行われた。真珠湾攻撃の立役者で、国民的英雄であった山本五十六が最前線において壮烈な戦死を遂げたことは、国民に暗い影を投じ、戦争の行く末を危ぶむ意識も出始めた。そればかりでなく、この事件が、戦後における山本五十六に対する国民の評価に大きな影響を及ぼすことにもなった。

8月15日の特攻攻撃

「一番機は右に、二番機は左に分離し、その距離を増せり。二回程回避の後、一番機や如何と右側を眺むるに何たることぞ、約4千米の距離にジャングルすれすれに黒煙と火を吐きたる一番機が速力も落ちて南下しつつあらんとは、しまった」(宇垣纏『戦藻録』)

二番機に乗った宇垣は、長官機がジャングルに堕ちゆく瞬間を目の当たりにする。直後、彼の機も攻撃を受け海上に墜落した。瀕死(ひんし)の重傷を負ったが、宇垣は一命を取り留める。だが、自らの発意で渋る山本を前戦に連れ出し死なせてしまったことへの悔悟と自責の念から、彼は死に場所を求めるようになった。

第2航空艦隊司令長官となった宇垣纏中将は昭和20年8月15日、宇佐で終戦の詔勅を聞いた後、中津留(なかつる)大尉操縦の「彗星(すいせい)」に同乗し、特攻攻撃を敢行する。宇垣の乗る彗星は同日夕、沖縄伊平屋島の海岸に自爆し散華した。出撃に際し宇垣は、山本から遺贈された短刀を携えていた。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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