年相応に成熟する老人に

スマホを使う高齢者女性

つい最近の出来事だ。急いで駆け込んだ電車の中で、いつものように背負いカバンを脱いで荷棚に載せてほっとしていると、前に座っている若い女の子がじっと筆者の顔を見詰めている。何かなと思っていると「どうぞ座ってください」と言って、さっと立ち上がるではないか。一瞬戸惑ったが、頭を下げてから荷棚のカバンを下ろし、空いた席に座らせてもらった。

実は、電車でこんな形で席を替わってもらったのは人生初めてだ。もう10年も前から頭髪に白髪が増えてきたが、「見た目はそれなりに若く見えるのかなあ」と内心ほくそ笑んでいたが、とうとう見た目まで「老人」の仲間入りかと思うと、来るべき時が来たのだなあと思う。

まだ30、40の意気盛んな頃は、席を替わってもらおうという意図が見え見えで、若者が座っている前に立つ老人の姿を見て、あまりいい気持ちがしなかった。だが、60歳も半ばを過ぎ、乗り合わせが悪くて電車を2回乗り換えてもずっと立ちっ放しの状態が続いたりすると、誰か席を替わってくれないかなという思いが湧いてくる。

そんな時は、あの、しゃあしゃあと若者たちの前に立って席を替わってもらった老人が、どういうわけか偉いなあと思えてきたりするのだから、不思議だ。

子供の頃、祖父と祖母はどこまでも孫に優しかった。祖父は丁稚(でっち)奉公からいろいろな経験をして、当時は胃の病気に苦しんでいたが、背中を足で踏んであげると10円くれた。祖母は火傷(やけど)をするとアロエの葉を貼ってくれ、よく饅頭(まんじゅう)を作って、昔の話をしてくれた。その優しさは老いではなく、心の成熟からくるものだったのだろう。

自分がその年になって分かるのは心は体ほど老いていないことだ。肉体的な限界のため行動に制限はかかっているが、さまざまな経験を重ねてきた経験値があり、心は消沈していない。年は取っても相応に成熟する老人でありたいものだ。

(武)

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