トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (22)山本連合艦隊司令長官の死(上)行動予定を把握していた米軍

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (22)山本連合艦隊司令長官の死(上)行動予定を把握していた米軍

危険認識欠く幕僚 護衛機増やさず

山本機を撃墜した米陸軍機ロッキードP38

解読されていた暗号

い号作戦終了後の昭和18年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は幕僚らを帯同し、最前線であるブーゲンビル島方面の基地視察と兵士の激励に赴いた。2機の陸攻に分乗した一行は午前6時にラバウル東飛行場を離陸、旅程はまずブーゲンビル島南端の先にあるバラレ島に飛び、その後、ブーゲンビル島のショートランドとブインの各基地を視察してラバウルに戻るものであった。零戦6機が護衛についた。

だが、山本の行動予定を米軍は事前に把握していた。ラバウルの南東方面艦隊が現地部隊に宛て一行の巡視計画を2度にわたり送信したが、その暗号が解読されていたのだ。バラレ到着直前の午前7時40分頃、一行は待ち構えていた16機のP38戦闘機に攻撃される。4機のP38が陸攻に襲い掛かり、他の12機は護衛の零戦に向かった。戦闘開始から5分後、長官機は右エンジンから火を噴きながらブイン飛行場西方の密林に墜落、黒煙が上がった。

山本長官が搭乗し撃墜された一式陸攻の残骸

直ちに捜索隊が編成され、翌日、第6師団第23連隊道路設営隊長の浜砂盈栄(みつよし)少尉が密林奥地で長官機を発見した。山本は機体左エンジンの傍で椅子に座り、左手で軍刀を握った状態でこと切れていた。機上での即死とされているが、服装に乱れなく顔立ちも奇麗で、なぜか蛆(うじ)もまだ湧いておらず、墜落後暫(しばら)く生存していた可能性がある。

公式の死体検案書は、左顎下から右眼眉上に抜ける貫通銃創と背部盲管銃創を記しているが、第一発見者は傷を見ておらず顔面に出血もなかったという。そもそもP38の20ミリ機銃弾を頭に受ければ顔が原形を保つとは考え難く、不自然である。何らかの作為が感じられる。山本の傍には、同乗していた高田六郎軍医長の死体が横たわっていた。這(は)った痕跡があり、最後の力を振り絞り山本を椅子に座らせ、その佇(たたず)まいを整えた後、絶命したものと思われる。

視察に現地幹部反対

山本のブーゲンビル視察には、小沢治三郎第三艦隊司令長官や城島高次第11航空戦隊司令官ら現地の幹部が強く反対した。陸軍の今村均第8方面軍司令官も、2月にガ島撤収兵慰問のためブインに飛んだ際、飛行場の手前でP38に襲撃されたが、陸攻が雲に隠れ難を逃れた体験談を話し、暗に自制を促した。だが山本の意思は変わらなかった。

一方、山本側近の連合艦隊司令部幕僚らは翻意を促さなかった。頑固な山本の性格を知るからとも言えるが、たとえそうでも中止を強く求めるか、護衛戦闘機を増やすべきであった。長官一行の護衛を命ぜられた第204航空隊の飛行隊長・宮野善治郎大尉は、護衛が6機とはあまりに少ないと全稼働機の20機をもって護衛に当たりたいと申し入れたが、連合艦隊司令部は「その儀におよばず」と却下している。黒島亀人参謀は「護衛戦闘機を増やすべし」の小沢長官の具申も無視した。連合艦隊司令部は最前線の危険性を軽視していたのだ。

視察計画を立てた南東方面艦隊司令部の判断にも問題があった。長官の巡視計画を立てた同司令部の航空乙参謀・野村了介少佐は長官機の離陸後、護衛戦闘機の少なさを心配する草鹿任一司令長官に対し、「近いから大丈夫です」と応じている。同司令部は、長官到着前の上空警戒すら現地部隊に命じていなかった。信じられないような大失態である。戦後、野村は「当時、ブインへ行くのは、隣り村へ行くぐらいの気持ちだったので、誰も特に心配していなかった」と自己弁護している。

長官機を襲撃したP38はガダルカナルのヘンダーソン飛行場から出撃しており、距離が遠いため燃料に余裕がなく、ブーゲンビル上空での待ち受け時間は数分程度しか取れなかった。長官の移動はいつも時間に正確なことを米軍は知っており、実際この日も一行の行動は計画通りであった。もし当日、陸攻の到着時間が予定より少しでも遅れておれば、P38との遭遇は避けることができた。また護衛に当たる零戦の数を増やしておれば、空戦時間が長くなり、撃墜できぬままP38は退却した可能性が非常に高い。

杜撰な情報管理体制

山本機撃墜後、米軍は暗号解読の事実を日本側に悟られぬよう、暫くの間、連日ブーゲンビル島上空を編隊飛行し、山本機攻撃が偶然の出来事であるかに装った。情報秘匿を徹底する米軍と対照的なのが日本軍である。

昭和18年1月末、物資補給任務に就いていた伊1潜水艦が、米軍機の攻撃を受けガダルカナル島沖で沈没した。米軍は潜水夫を潜らせ、同艦から海軍暗号に用いる乱数表の入手に成功する。しかし、山本視察前の4月1日に海軍は乱数表を最新のものに更新している。新しい乱数表を使って巡視計画を現地部隊に打電しておれば、米軍の解読を防げたはずだ。

ところがラバウルの南東方面艦隊はなぜか更新前の、即(すなわ)ち米軍が伊1潜水艦から入手した古い乱数表を使った。ラバウルに届くのが遅れたか、届いたばかりで新しい乱数表を使用しなかったのか、定かでない。また視察の5日も前に、しかも極秘にも拘(かか)わらず2回も発信している。現地で粗相があってはならぬとの官僚意識が秘匿よりも優先されたのだ。

事件後、海軍は暗号漏洩(ろうえい)を疑い調査したが、乱数表は直前に更新されており解読不可能と断定し、問題無しの結論を出した。粗雑な調査から、威信を保とうとする海軍の思惑が透けて見える。山本機の撃墜を、日本では不運や悲劇のように扱う。だが軍事的に許し難い失態である。日本海軍の情報管理の杜撰(ずさん)さや、秘匿性より視察の段取りを重視する官僚主義、さらに連合艦隊司令部の最前線に対する危険認識の甘さを露呈させた事件であった。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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