
有名人のスキャンダルがしばしば報道される。が、その直後に大きな社会的事件が起きれば、スキャンダルは遠景に退く。当事者だった有名人にとってはラッキーだ。
逆に、重大事件がない時にスキャンダルが発覚した場合は不運だ。さしたる話題でもないのに、いつまでも転がり続ける。
スキャンダルの当事者とは無関係に、全ては偶然が決める。重大事件が短期間に続発すれば、重大事件Aの話題はたちまち隅に追いやられて、代わりに事件Bが前面に出てくる。話題が変われば、事件Aの当事者はホッとするだろうし、Bの関係者は自身の不運を嘆きながら「事件Cが起こればいい」と願うかもしれない▼同じことが歴史的評価にも当てはまる。評価は歴史家の役割だ。おおむね、歴史的事件の当事者が死んでから評価が下される。その後しばらくして、いったん下された評価が変化することも多い。
例えば織田信長のように、従来の「革新的」という評価から、最近は「意外に現実的・保守的」へといった例もある。それでも、学校の教科書にまで信長評価の変化が届くには10年程度の時間がかかるようなので、そこは微妙だ。そうした変化の過程を経て「高校のころに習った歴史とは違う」と言われることになるケースも多い。
半面、歴史は始終修正されているから「修正の修正のそのまた修正」という事態もあり得る。特に最近の歴史学の進展の度合いは早いようだから、油断は禁物だ。