トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(21)い号作戦と航空消耗戦 山本司令長官が独自で発動

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(21)い号作戦と航空消耗戦 山本司令長官が独自で発動

航空兵力結集させるも乏しい戦果

長期持久態勢構築へ

ラバウルで搭乗員に訓示する山本長官

大本営海軍部は、開戦から昭和17年4月ごろまでを第1段作戦、4月から昭和18年3月ごろまでを第2段作戦と呼称し、第2段作戦では占領地の拡大と米英艦隊の補足撃滅を目標に掲げた。だが、ミッドウェイの敗退とガダルカナル喪失で計画は挫折。そこで、ガダルカナル撤収作戦の終了を受け、新たに第3段の作戦方針を示した(昭和18年3月25日)。

今後、連合軍の反攻が一層強まることを前提に、「敵艦隊及び航空兵力を撃滅…速やかに自彊(じきょう)必勝の戦略的態勢確立を目指す」というのが骨子だが、抽象的文言の羅列で攻めるのか守るのか判然としない。

い号作戦に参加した海軍航空隊

立案した元軍令部第1課首席部員・佐薙(さなぎ)毅(さだむ)中佐の言に頼れば、積極的進攻作戦は止(や)め、予想される連合軍の本格的反攻に備え既占領地域の防備を固め、ガ島作戦のような失敗を繰り返さぬように努め長期持久態勢を確立するという趣旨で、要するに戦略守勢を主とし長期持久態勢の構築を目指すものであった。

ガダルカナル島奪還を期した連日のソロモン消耗戦で、日本海軍は航空機と搭乗員の多くを失った。だが、内地での航空機生産能力はじり貧、空母の建設も遅々として進まなかった。現有戦力の維持もままならぬ日本軍に対し、米軍は猛烈な勢いで標準仕様の軽空母を建造したほか、昭和18年半ば以降、エセックス型の正規空母を陸続と就役させた。

航空機の生産でも、搭乗員養成の数でも米軍は日本を大きく引き離した。しかも開戦当時と違い、日本軍機よりも高い攻撃力と防御力を備えた新鋭機を前線に送り出してきた。そうした厳しい状況の下で、劣勢の日本軍が支え切れぬほどに広大な太平洋の各戦線で徒(いたずら)に対米決戦を挑んでも、戦力喪失を加速させるだけの結末は見えていた。一先(ひとま)ず戦線を下げ、無駄な交戦を回避し、時を稼ぎ搭乗員育成と航空部隊の再編に力を注ぐべきであった。

大本営と調整をせず

ところが第3段作戦が発令された直後、山本五十六連合艦隊司令長官は、再び大規模な航空決戦に出た。い号作戦である。既にソロモン、ニューギニアの制空権は連合軍に奪われ、ラバウルからダンピール海峡を越えてニューギニアへの兵員輸送も至難を極めていた。ここで一度敵に打撃を与えておかなければ、日本は益々(ますます)追い込まれてしまうという危惧から構想されたものだが、大本営との調整を経ず山本が独自に発動させた作戦だった。

不利な戦況にも拘(かかわ)らず、現場が中央との調整も経ずに兵を進めるという信じ難い暴挙が、日本海軍ではまかり通っていたのだ。真珠湾作戦以来、山本の威光に押され連合艦隊の強引な主張を軍令部が抑えられぬまま、攻撃絶対の名の下に海軍は再び消耗戦に突入する。

この作戦では、持てる航空兵力の全てを結集するため、第3艦隊(機動部隊)の空母艦載機を陸揚げし、ラバウルの第11航空艦隊(基地航空部隊)の航空機と合同させ、ガダルカナル、ポートモレスビーの二正面に総攻撃を仕掛けることとされた。山本は作戦の重要性を示すため、自らトラックからラバウルに出向き陣頭指揮に当たった。明治5年の日本海軍創設以来、艦隊の最高指揮官が司令部を前線の陸上に置いたのは、これが初だった。

誇大な戦果報告受容

い号作戦(昭和18年4月7~14日)で航空部隊は5回にわたりガダルカナル島やポートモレスビーを空襲、延べ出撃機数は零戦491機、九九式艦上爆撃機111機、一式陸上攻撃機81機の計683機。報告された戦果は、敵艦船21隻撃沈、8隻大破、1隻小破、航空機134機撃墜、さらに15機以上を地上撃破。日本側の損失は、零戦18機、艦爆16機、陸攻9機の計43機。敵に甚大な打撃を与えたと海軍首脳は安堵(あんど)した。だが実際の戦果は報告より遥(はる)かに小さかった。米側記録では、失ったのは駆逐艦1隻、油槽船1隻、輸送船2隻、飛行機25機にすぎず、作戦成功とは到底言い難い。

い号作戦に当たり海軍は相当数の航空機を掻(か)き集めたが、ガ島戦と同様、我が方の動きは米側に察知され、しかも彼我の戦力格差は開くばかり。そのうえ劣勢な兵力をソロモンとニューギニアの二正面に仕分けたため、兵力集中の効果も得られなかった。

それにしても、なぜこれほどの誤差が出たのか。開戦当初は優位な戦を進め、戦果報告も一定の正確さを保っていた。だが苦戦が続き実戦体験に乏しい技量未熟の搭乗員が増え、彼らの誇大な報告が精査されぬまま上級司令部で採用される悪弊が常態化しつつあった。

上級司令部は無論のこと、航空隊の幹部、幕僚すら自ら実際の戦闘に参加しておらず、チェック機能が働かなかった。搭乗員の勇戦敢闘で多大な犠牲を払った以上一定の戦果は確実な筈(はず)で、報告の数値に大きな齟齬(そご)はあるまいとの楽観論や身贔屓(みびいき)が幅を利かせたのだ。疑問を抱いても、「命懸けの部下の報告を上官が疑うのか」という日本的情緒主義には逆らえなかった。過大な誤報を基に敵兵力を見積もるため、次の作戦でも大敗を喫することになる。

ミッドウェイ以後、山本の作戦指導は精彩を欠き、新鮮味も失われた。また山本が重用した作戦参謀・黒島亀人が立てる作戦はいつも同じパターンで、米側に手の内が読まれていた。しかも枝作戦を複雑に組み合わせる積み上げ細工の如(ごと)き作戦は、戦闘で重要な兵力運用の柔軟性を部隊から奪った。短期決戦以外に勝機は無いと信じる山本は攻撃絶対主義に固執し続けたが、戦えば戦うだけ損耗は拡大し、戦局挽回を図れぬまま苦しい立場に追い込まれていった。蟻(あり)地獄から抜け出す戦略を、彼は持ち合わせていなかったのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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