トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(20)ガダルカナルの死闘(下) 戦死者2万、大半は飢餓と疫病

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(20)ガダルカナルの死闘(下) 戦死者2万、大半は飢餓と疫病

撤退を遅らせたメンツと責任転嫁

現地見ぬ幕僚の悪癖

ガダルカナルで捕虜となった日本兵

現地を見ず、知らず、不正確な地図だけを眺め、将棋の駒を動かす気安さで陸軍中央の幕僚は作戦指導に当たった。この悪癖が、ガダルカナルやニューギニアの悲劇を生み出した。情報も持たされず島に送り込まれた現地部隊の前には、日本人の想像を絶する深いジャングルが横たわっていた。前を進む兵士の姿さえ見失うほどの密林をやっとの思いで抜け、いざ攻撃となるや、今度は中国戦線では体験したことの無い凄(すさ)まじい火力が浴びせられた。だがこの島では、米軍との戦闘よりも、食糧不足と疫病が最大の敵となった。

「立つことの出来る人間は寿命30日間、寝たきり起きられない人間は一週間、もの言わなくなったものは二日間、瞬きしなくなったものは明日…」

全国ソロモン会によるガダルカナル、アウステン山での遺骨収集活動(2016年)

日本軍将兵の生態を記した第38師団歩兵第124連隊小尾靖夫少尉の日記の一節だ。島の悲惨な惨状を的確に伝えている。食糧の配給は上陸直後に途絶え、トカゲや蛇、ヤシなども食べ尽くし、やせ細り体毛さえ生えず兵士の体力は極限状態にまで低下。ガ島は餓島と化した。小銃すら持てず、もはや自力で動けぬ兵士の体にはウジが湧いた。激しい下痢やマラリアに襲われ、亡くなる兵が続出。飢餓と病で戦闘力を失った日本軍は、死を待つだけの集団となった。ラバウルから餓島を訪れた高級参謀らは、常人とは思えぬ兵の姿を目の当たりにし絶句。その隙に彼らの糧秣(りょうまつ)は悉(ことごと)く飢えた兵士に奪われたのである。

大陸命に反対できず

餓島の実態を軍中央は把握せず、昭和17年11月7日には飛行場奪還作戦の続行を天皇に奏上する。島の惨状が知られるようになったのは、現地に派遣した辻正信中佐が戻り、杉山元参謀総長らに状況報告した11月下旬だった。第2師団の攻撃失敗から、一月以上が経過していた。もはや奪還の術(すべ)なく、しかも極限状態に追い込まれた将兵の実態を知った後も、軍が撤退を決めるにはさらに一月以上の時を要した。なぜ速やかに撤退を決められなかったのか。

市谷の陸軍参謀本部

戦後、当時の関係者が異口同音に語ったのは、「島を奪還せよ、奪還作戦を継続せよ」の天皇陛下の命令(大陸命)は絶対であり、それを覆したり反対したりするような意見具申は不可能との論理だった。撤退の研究に手を付けることさえ憚(はばか)られ、公言できなかったのである。

現地部隊から撤退を言い出せずとも、中央が決めればよいのだが、軍のメンツがそれを阻んだ。ヒエラルキーの上に行くほど、組織のメンツや威信が力を持つ。陸軍も海軍も敗北撤退の責任を負いたくない、汚名を着せられたくもない。誰が見ても奪回が不可能なことは自明でありながら、陸海とも先に撤退を言い出すことを避け続けたのだ。

本はと言えば海軍の浅慮で持ち上がった奪還作戦だ。海軍が先に撤退を言い出すのが筋だが、山本五十六も厳しい状況を中央には伝えても、撤退を具申はしなかった。宇垣纏(まとめ)連合艦隊参謀長の日誌からは、奪還作戦を直接担当している陸軍が言い出してくれれば有り難いとの思いが伝わってくる。一方陸軍は、海軍が持ち込んだ作戦であり、撤退の責任と汚名を陸軍だけが背負いたくはなかった。今日の日本社会にも通じる組織の論理だ。

誰も撤退を言い出さぬまま、奪還作戦は続けられた。ところが12月初旬、陸軍への輸送船割り当てを強引に要求した参謀本部第一部長田中新一中将が東條英機陸相の怒りを買い、更迭された。関係者の移動も発令され、奪還を唱えていた最高責任者が相次いで交代。組織の人心一新を機に、ようやく陸軍は撤退に動きだす。

12月中旬、新任の参謀本部真田穣一郎軍事課長がラバウルに飛び、現地の声を聴いた上で撤退案を纏(まと)め、同月26日参謀総長らに説明し、了承を得た。それまで参謀本部の全員が作戦続行を叫び誰も言い出さなかった撤退案に、今度は誰一人として異論を挟まなかった。これほど不条理な組織もない。

柔軟性欠く作戦指導

年も押し詰まった昭和17年12月31日、大本営政府連絡会議で、杉山陸軍参謀総長と永野修身軍令部総長は、ガ島奪回作戦を中止、翌年1月下旬~2月上旬に在島部隊を撤収させる方針案を上奏し、天皇の裁可を得た。この作戦に投入された将兵は3万人。うち1万人余は救出されたが、島の土となった2万人の大半は、戦闘ではなく飢餓と疫病の犠牲者だった。

撤退後、日本は坂を転げるように敗戦への途(みち)を走って行く。だが、ガ島が天王山で、その戦いに敗れたから太平洋戦争に負けたというものではない。攻勢一本槍(やり)で退くを知らず、下がるを選べず、勝算も無いまま消耗戦を繰り返し、徒(いたずら)に戦力をすり減らしたことが敗因だ。

攻撃と前進のみが作戦ではない。時に戦略戦術的な後退、退却も必要となる。「相手が出れば下がり、相手が下がれば出る」。戦争は彼我双方の駆け引きの中で行われるものであり、軍種を超えた協力も必要になる。それ故、作戦指導には常に柔軟性が求められるのだ。しかし、帝国陸海軍はその柔軟性を失っていた。

撤退を許さぬ教条的なドクトリンの弊が指摘されるが、それだけが問題ではない。統帥権独立の下、軍は政治を抑え強大な力を独占したが、その一方、並立統帥の建前が陸海一体の統合作戦を難しくし、また大命に背くとして撤退の選択肢を選び取れなかった。組織の論理やメンツが、常に将兵の生命よりも優先されたのだ。

ガダルカナル撤退の断を早期に下せなかった日本軍、それは徹底抗戦を叫び続け、戦争終結への道筋を最後まで描けぬまま滅んでいった帝国陸海軍の姿と相似を為(な)している。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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