戦略史家 東山恭三
二つの“幕府”が併存
米軍の強襲に慌てた海軍は、ガダルカナル島の奪還を陸軍に諮った。だが陸軍参謀本部には、飛行場設営の話はおろか島の名さえ知らない者がほとんどだった。陸軍の認識不足の背景には、日本軍の構造的問題が横たわっていた。

建軍以来、陸海軍は別個に天皇に直隷し、互いは並立の関係にあった。仮想敵国は異なり、国防戦略も一本化できなかった。しかも時代が下るにつれ両者の対立は深まり、昭和戦前期の日本は、あたかも二つの“幕府”が併存するかの体であった。両幕府を一つに纏(まと)め上げるのは統帥権者(天皇)のみで、実際にそれは不可能だった。
陸軍の関心は南方やインド、中国大陸、それに北のソ連に向けられ、対米戦(太平洋方面)は海軍の担当とされた。ガ島問題が持ち上がった時も陸軍の目は重慶作戦に向いており、島嶼(とうしょ)戦は視野の外だった。元来、日本陸軍の米陸軍への関心は薄く、第1次大戦の戦いぶりから評価も低かった。対米戦に備える陸軍の心構えは乏しく、知識も警戒の念も薄かったのだ。
一方の海軍は太平洋方面の作戦に陸軍が口出すことを嫌い、情報も提供しなかった。その上、米軍上陸を本格的反抗と考えておらず、事態の重大性が陸軍に伝わることもなかった。こうした状況の下で突然、海軍から陸軍に奪還要請が届いたのだ。明治建軍以来、統合作戦の経験を持たず常に別々の戦をしてきた陸海軍は、ガダルカナルで初めて同じ土俵の上で戦うことを強いられたのである。

失敗続いた奪還作戦
ガダルカナル奪還(カ号作戦)に当たり陸軍は、小規模な局地戦ゆえ大隊程度で十分と判断。ミッドウェイ島攻略のため送り出していた一木支隊を同島に転用したが、島の情報は皆無で、僅(わず)かに海岸線の概要を示す海図が手渡されただけだった。
島に上陸した一木支隊先遣隊約900人は昭和17年7月20日夜、敵情不知のまま海岸沿いに飛行場に接近したが、待ち構える米軍の猛烈な砲火に晒(さら)され壊滅。次に送り込まれた川口支隊と一木支隊残部の計約4000人は、南に進み飛行場の背後から迂回(うかい)夜襲攻撃を試みた。だが深いジャングルと熾烈(しれつ)な米軍砲火に阻まれ総攻撃は失敗、奪還はならなかった(9月14日)。
川口支隊の敗退でようやく事態の深刻さに気付いた参謀本部は、派遣規模を拡大し第2師団を投入。丸山師団長は道無きジャングルをかき分け(丸山道)、島の西から飛行場に接近、背後から攻撃を掛けた。しかし米軍との火力差は広がる一方で、第2次総攻撃も失敗(10月26日)。続く第38師団は輸送船の大半が沈められ、3万人のうち2000人しか上陸を果たせなかった。第3次総攻撃は見送られ、糧食を欠いた兵士は忽(たちま)ち飢餓に襲われた。
海軍が求めた奪還作戦だが、兵員物資を運ぶ輸送船は陸軍自らが確保せねばならなかった。陸海双方が持つ輸送船を一元管理し船の拠出や運航を統制するメカニズムは、この国には存在しなかったのだ。海軍は駆逐艦を提供したが輸送量は限られ(鼠(ねずみ)輸送)、次々に米軍機に沈められ損耗は著しかった。苦肉の策として、駆逐艦に物資を詰めたドラム缶を曳航(えいこう)し島の沖合で在島兵士に引き渡す方法や、足の遅い小型揚陸艇(大発)を夜間島伝いに派遣(蟻(あり)輸送)、また潜水艦での物資輸送(土竜(もぐら)輸送)も試みたが、運べる量は僅かだった。
長駆ラバウルからの航空攻撃は繰り返されたが、前回触れたように搭乗員や航空機の犠牲ばかりが増大し、戦果は伴わなかった。航空機の生産能力や搭乗員数など彼我の国力差を無視した長期消耗戦は、日本の戦力崩壊を著しく早めた。
一方、機動部隊は第2次ソロモン海戦(米空母1隻中破)や南太平洋海戦(米空母1隻撃沈、1隻中破)で一定の戦果を挙げたが、島の奪還よりも米空母撃滅を重視。また島から飛来する米軍機を警戒し、飛行場への肉薄攻撃を避けた。山本長官の発案で、戦艦金剛、榛名(はるな)が飛行場への艦砲射撃を敢行、相当の打撃を与えた(10月13日)が、同じ戦法を繰り返し、2度目以降は成功しなかった。地上戦は陸軍の担当との意識が海軍に強く、また陸軍が頻繁に攻撃予定日を変えたため連携に手間取り、陸軍の総攻撃を海軍は支援できなかった。
かように苦しい戦いを強いられたにも拘(かか)わらず、日本軍はガ島奪還とポートモレスビー攻略の二正面作戦を続けた。限られた戦力を一方に集中すべきところ、それができなかった。
糧食さえも欠く窮状
飛行場奪還失敗の原因として、陸軍による兵力の逐次投入が指摘される。米軍の意図も規模も過小評価し、大隊程度の兵力を、しかも2度に分けて送り込んだ点は批判されるべきだが、そもそもガ島に大規模な兵力を一挙に送り込むだけの輸送力は日本軍にはなかったのだ。
その上、数少ない輸送船は悉(ことごと)く沈められ、小さい駆逐艦で重火器を搬送、揚陸することはできなかった。圧倒的な米軍火力を前に、夜襲や白兵戦を繰り返すしか術(すべ)のない日本軍は敗退を重ねた。食糧も忽ち底を尽き、ジャングルの中で将兵は飢餓と疫病に倒れていった。
制空権を握れず、輸送力も乏しいなか、小火器だけで飛行場奪還が困難なことは、早い段階で明らかだった。奪還のめどが立たぬ以上、勢いに任せ突撃を繰り返し、あたら戦力の消耗を重ねる愚を避け、遅くも第2師団の総攻撃失敗を機に軍中央は撤退を決断、在島将兵を早期に収容し、戦線の立て直しを図るべきであった。なぜそれができなかったのか。
(毎月1回掲載)