トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(18) ガダルカナルの死闘(上) 補給支援考えぬ無謀な進出作戦

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(18) ガダルカナルの死闘(上) 補給支援考えぬ無謀な進出作戦

連合艦隊に膨張志向と攻撃絶対主義

米軍の攻撃を受けるツラギ基地

ラバウルから千キロ先

昭和17年初め、日本海軍は占領した南方地帯の安全確保のため、ニューギニアからソロモン諸島、さらにフィジー・サモアを攻略し(FS作戦)、この東西の線で米豪を遮断し米軍の西進を阻止しようと考えた。4月にニューギニアのポートモレスビー攻略(MO)作戦が発動され、5月3日、横浜航空隊はソロモン諸島南端ガダルカナル島沖の小島ツラギとその属島タブツ、タナンボコ両島を強襲、豪軍を制圧し水上機基地を開設する。ポートモレスビー攻略に際し、ソロモン方面から珊瑚(さんご)海に飛来する米軍機の偵察、哨戒が任務であった。

次いで同月25日、航空機の調査でガダルカナル島北西部ルンガ河口付近にFS作戦で必要となる飛行場の適地を発見、急ぎ設営に取り掛かるべき旨、上級司令部に具申がなされた。だが軍中央が返答する前に珊瑚海、ミッドウェイと大海戦が相次ぎ、戦況は変化した。空母4隻を失った日本海軍はFS作戦を中止(7月)、ポートモレスビーの奪取を陸軍に委ねた。

ミッドウェイで機動部隊を失った以上、南西太平洋の前線拠点をラバウルとし、野放図な戦線拡大を慎み、守りを固め米軍の西進に備えるべきだった。しかるに連合艦隊は6月下旬、ガダルカナルの飛行場造成にゴーサインを出す。失った空母艦載機の代わりに基地航空部隊を同島に送り込み、ニューへブリデス諸島やニューカレドニアからソロモン進出を狙う米軍に対処するとともに、FS作戦復活の淡い期待も込められていた。

7月6日、ガダルカナル島に軍属を主体とする第11、13設営隊約2500人が上陸、人力で飛行場建設を開始した。守りに当たるのは、250人弱の陸戦隊員らだけだった。だが、この島はラバウルから千キロも離れた最前線に位置し、その間に日本軍の飛行場や中継拠点は1カ所もない。遠隔の島にポツンと飛行場を設けても補給支援は難しく、米軍が来襲した場合即時に反撃もできない。誰が考えても無謀かつ拙劣な進出作戦である。

カダルカナル島に上陸する米軍の第1海兵師団

擂り潰された航空隊

この重大なミスが、ガダルカナル争奪の戦で敗北を喫した最大の原因となる。米軍上陸後、奪還のため連日ラバウルから零戦や一式陸攻が出撃したが、ガダルカナルへは片道2時間を要した。搭乗員は疲労困憊(こんぱい)、しかも燃料に余裕なくガ島在空時間は僅(わず)かに10分程度。

ソロモン各島の原住民から伝えられる情報で日本軍機の動きを掴(つか)んでいた米軍は、予(あらかじ)め飛行場から航空機を退避させ被害極限を図るとともに、戦闘機部隊がガ島上空で日本軍機を待ち構えていた。在空時間の限られた日本軍機に、性能を高めた米軍機が次々に襲い掛かった。その結果、戦果を挙げられぬままラバウル航空隊の貴重な航空機と搭乗員が次々に失われ、日本海軍航空隊の戦力は擂(す)り潰(つぶ)されていく。

ソロモンの制空権を確保するならば、飛行場建設は遥(はる)か遠方のガダルカナルではなく、まずはラバウル近郊のブーゲンビル島やニューギニア北西岸等に飛行場を設け、周囲を固めるのが先決だ。なぜいきなり千キロ先に飛行場を造ったのか。連合艦隊司令部はミッドウェイの大敗後も、相変わらず米軍の反攻時期を昭和18年以降と思い込んでおり、時間の余裕があると踏んで米軍来襲の危険や警戒心を抱かなかった。米軍不在の島に飛行場を造るだけの土木作業と認識していたのだ。最前線にありながら対米戦を想定せず、十分な援護部隊も付けず、丸裸に近い状態で軍属らの設営部隊を送り込んだのである。

ミッドウェイ敗退直後、茫然(ぼうぜん)自失に陥った山本五十六も漸(ようや)く戦意を回復、それとともに攻勢一本やりの作戦が再び幅を利かせ始める。戦局が傾きだしたにも拘(かかわ)らず、戦線を押し広げたがる膨張志向や攻撃絶対主義が連合艦隊司令部に取り付いていた。

制空権は結局握れず

日本軍による飛行場建設の動きを米軍はいち早く察知した。苦労の末8月7日、設営隊が飛行場を完成させるや、バンデクリフト少将率いる第1海兵師団がガダルカナルに上陸し飛行場を強奪、2日後にはツラギ守備隊が玉砕した。強襲される前から設営隊は米軍機の頻繁な飛来を上級司令部に報告していたが、注視されなかった。米軍上陸後も連合艦隊司令部はこれを本格的反攻と理解せず、様子を探る小規模な偵察行動と見誤った。

米軍来襲の報に接し、三川軍一中将の第8艦隊が急遽(きゅうきょ)ラバウルからガダルカナルに進出、米艦隊に大打撃(重巡4隻撃沈、1隻大破)を与えた(第1次ソロモン海戦)。だが米空母を警戒し、重砲など揚陸作業中の輸送船団攻撃を見合わせ、米軍の飛行場完成を許す結果となる。米軍は高い設営力を発揮、日本人には信じ難いほどの早さで飛行場を造り上げ、大量の航空機を送り込んだ。そのため日本は最後までソロモンの制空権を握ることができなかった。

米軍進出に備え相当規模の戦闘部隊を随伴させるか、奇襲を受けた後も直ちに米軍の輸送船団や上陸部隊を叩(たた)き、飛行場を奪還し航空部隊を送り込んでおけば、島もソロモンの制空権も確保できたはずだ。だが海軍は対米警戒を疎(おろそ)かにし、情報収集に徹する努力も怠った。支援もままならぬ遠き島ガダルカナルへの進出は、海軍のみならず半年にわたる壮絶な奪還戦に陸軍を巻き込み、多くの将兵が犠牲となった。ミッドウェイに続き、山本連合艦隊司令部の罪は、あまりにも大きい。(毎月1回掲載)

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