静かに別れ告げ生を考える

安倍晋三元首相の国葬

コロナ禍が始まった2020年の夏、その年の初めから入院していた父が泉下の客となった。今夏は安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、先月27日には国葬が厳かに執り行われた。

国葬を伝えるメディアの多くが「賛否両論がある中」と、余計な枕ことばを付けていたことに違和感を覚えながらも、筆者の思いは「静かに送りたい」ということだけだった。その心境に至ったのは、父の葬儀に参席できなかった経験が大きく影響した。

喪主の兄は当初、地元(宮城県)で行う葬儀に参席してもいいと言っていた。しかし、新型コロナに対する過剰反応から、周囲が東京に住む人間の参席を許さなかったのだ。親の最期を見送ることができない不条理に愕然(がくぜん)としたが、兄に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。

仕方がない。一晩寝ずに両親の写真を前に瞑想(めいそう)しながら、一人静かに別れを告げることにした。朝を迎えた時、人を弔うことの意味が分かった気がした。葬儀に参席することは大切だが、それ以上に父の思いを引き継いで、両親を世に送り出した先祖たちに恥じない人生を歩む決意を新たにすることが本質だとひらめいた。その瞬間、もやもやした思いが吹っ切れた。人の死に真剣に向き合えば、自分の人生の意味が見えてくるのである。葬儀に参席したら、そんな境地にならなかったかもしれない。

安倍氏の国葬では、花を手向けに行くことも考えた。しかし、体調が悪かったこともあって、家で静かに見送ることにした。憲政史上最も長く首相の座にあり、しかも選挙応援演説中にテロに遭った希代の政治家の死を弔うことの本質は何かを沈思黙考した。

安倍氏の生きざまと同氏を生み出した日本の歴史に向き合いながら、国の未来が少しでも明るいものになるよう、微力ながら精いっぱい生きなければ、と自然に思えてきた。一人でも多くの国民がその志を共有することが国葬の意義だったと、筆者には思えてならなかった。

(森)

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