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「白河の関越え」が今週、話題になった。夏の高校野球で宮城県の仙台育英が覇者となり、優勝旗が初めて東北にもたらされたからだ。新聞紙上には能因や西行ら名だたる歌人の関にまつわる和歌が紹介されていたが、この人の名がなぜかなかった。
江戸中期の白河藩主、松平定信である。幕府の老中として「寛政の改革」を行ったことで名高いが、平安期以降に場所さえ分からなかった関を探し出し、「古関蹟(こかんせき)」の碑を建てたのが定信だ。昭和30年代に5年かけて発掘調査が行われ、本物だと証明された。彼がいなければ所在地不明のままだったかもしれない。
現在は「白河関の森公園」が造られ観光地となっているが、白河の城下町や旧奥州街道(国道294号)からも離れた山間地にある。猛暑が続いた6月に訪ねた。碑は公園の手前の鬱蒼(うっそう)とした木々の中にあり、うっかりすると見過ごすところだった。
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』でお馴染(なじ)みの長谷川平蔵を火付盗賊改方に大抜擢(ばってき)したのも定信である。老中失脚後は白河に戻り、善政を敷いた。
身分を超えて楽しめる「士民共楽」の理念の下、日本最古の公園とされる南湖を造り、「間引き」(赤子殺し)を防ぐため新生児に金1両を給付したりした。渋沢栄一が最も尊敬した一人である。
「白河の清きに魚も住みかねて……」などと当時のマスコミ人(狂歌師)に揶揄(やゆ)されたりしたが、いつの時代にも悪口を言う人はいるものだ。