マレーの虎・山下奉文(下)複雑な心性持った悲劇の将軍 新日本建設へ三つの遺言

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(14)

戦略史家 東山恭三

バギオの降伏文書調印式に臨む山下(左から2人目)と武藤章(左端)

バギオの山中で終戦

牡丹江で対ソ戦に備える山下奉文(ともゆき)は陸軍大将に昇任、そして敗色濃い昭和19年9月下旬、フィリピンの第14方面軍司令官を命じられる。東條内閣は既に瓦解(がかい)しており、梅津美治郎参謀総長の計らいで宮中に参内、天皇への拝謁も認められ二・二六事件以来の心の闇も晴れた。久々に家族団欒(だんらん)の時も持てた。開戦後、山下が内地の土を踏むのは、これが最初で最後となった。

10月初旬、山下はマニラ郊外の司令部に陣取った。フィリピンを主戦場とする捷(しょう)一号作戦は、ルソン島での地上決戦を想定していた。だが山下着任後、台湾沖航空戦の誇大戦果を信じた上級司令部の南方軍は、攻勢を期し決戦場をレイテに進める。山下は反対したが、容(い)れられなかった。海軍はレイテ沖海戦に敗れ制空権を喪失、レイテ進出の陸軍は飢餓地獄。さらに部隊を引き抜かれ、ルソン防衛の兵力も失う等レイテ決戦は惨憺(さんたん)たる結果に終わった。

正攻法での勝利はもはや望めず、山下は山岳地帯に退いての持久戦を決意、マニラを放棄し「自活自戦、永久抗戦」を命じ、自らもルソン島の山中を転々と移動した。医師の家庭に育ち衛生観念が人一倍強い山下は、蠅叩(はえたた)きを常に手に持ち、大将ながら戦場で蠅を追う毎日だった。赫々(かっかく)たる戦果も挙げぬまま、バギオ山中で山下は終戦を迎える。

米軍の投降勧告に応じ、9月に山を下りた。部下に代わり責任を負う必要があるとして自決の途(みち)は選ばなかった。武人の誉れよりも組織の秩序を優先させた官僚的対応と言えようか。バギオでの降伏調印式には、マッカーサーの指示でパーシバル中将が呼び寄せられ、山下が署名に用いた万年筆が贈られた。屈辱を与え、報復の裁きの幕開けを示す演出だった。

降伏し山を下りる山下奉文。痩せて軍服が合わなくなっている

戦前日本の社会痛罵

マニラ郊外モンテンルパの刑務所に収容された山下の戦争裁判は、10月から始まった。フィリピンにおける米国民およびフィリピン市民に対する部下の残虐行為を許したことが罪状とされたが、その多くは山下のフィリピン赴任前の出来事だった。一時は無罪の観測も出たが、12月7日、求刑通り死刑判決が下された。判決言い渡しが日米開戦の日とされたことからも、報復裁判の実態が伝わってくる。翌21年2月23日未明、マニラ郊外ロス・バニョスで刑が執行された。軍人に相応(ふさわ)しい銃殺ではなく、絞首刑であった。

執行の40分前、山下は森田正覚教誨(きょうかい)師に遺言を残した。まず将兵の遺族に、自らの責任で子息や夫君を多数殺したことを衷心よりお詫(わ)び申し上げると謝した上で、国民大衆を多く殺傷し、残れる者を塗炭の苦しみに陥れた軍部の専断に断腸の思いがするとし、新日本建設には、私たちのような職業軍人やそれに阿諛(あゆ)追従せる無節操な政治家、侵略戦争に正当の根拠を与えた御用学者等を参加させてはならず、軍国主義者どもを追放し国民自らが主体的な立場で立ち上がっていただきたいと訴えた。

その上で、義務の履行、科学教育の振興、それに女子教育の3点に意を用いてほしいと語った。女子教育については、日本婦人の最高道徳とされた従順や貞節には自由や自律性が伴っていない。平和の原動力は婦人の心の中にある。今後は獲得された自由を発揮し能力を高め、世界の婦人と手を繋(つな)ぎ行動し得る新しい日本婦人となっていただきたいと説いた。陸軍大将としては極めて異例な遺言である。筆者は、山下が戦前日本の社会を痛罵したのは、あえて占領軍の主張に迎合し、部下将兵の一日も早い故国復帰を実現するための方便ではと考えたことがあった。だが彼の人生を顧みて、いやそうではないと今では思っている。

人間臭さ見せて散る

山下は優秀な軍官僚で、上司の評価は極めて高く、派閥を超えて彼を慕う部下も多い。フィリピンで参謀長として仕えた統制派の武藤章もその一人で、山下の人間的な魅力に惹(ひ)かれていった。しかも山下は、昭和の軍人には珍しく、戦場で勇敢に戦う武人でもあった。

その一方、内に秘めた思いは将軍には似つかわないほどに、当時としては過激であった。貧しい家庭に育った山下は、貧困と不平等の蔓延(はびこ)る日本社会に義憤を抱き、社会改革を目指す青年将校に共鳴した。彼自身も政党や財閥を強く憎んだ。それが皇道派の烙印(らくいん)を推される原因となったが、山下には叛乱(はんらん)を己が出世の足掛かりにしようという気など毛頭なかった。

社会改革の必要を痛感しつつも、軍紀を乱すクーデターは容認できない。だがそれに代わり得る改革の具体的な道筋を見いだせない己自身にもどかしさを感じていた。二・二六事件の際の曖昧な態度や沈黙は、その表れではなかったか。ただの保身とは違っていた。

また情の強い山下は、妻久子ではなく、その妹勝子との不倫関係を長く続けていた。立場上公にはしなかったが、女は家に籠(こ)もり家庭に尽くすを良しとする当時の道徳観念や女性観には否定的で、自らが愛した勝子のように、社会に出て自由奔放に行動する逞(たくま)しい女性を、またそれを可能とする社会を、山下は求めていたのだ。

死を前にもはや憚(はばか)る何物もなくなった時、山下は戦前の日本社会を痛烈に批判、自身の女性観も赤裸々に語った。処刑直前まで「正義は日本にあり、この戦は自衛戦争だった」と主張し続けた東條英機とは、対照的な最期である。慎重居士という能吏の鎧(よろい)を脱ぎ、人間臭さを見せて散った将軍、それが山下奉文だった。幼少期を過ごした高知県大豊(おおとよ)町に、彼を祭る巨杉(きょさん)神社がある。先の大戦で神社で祭られている軍人は山下唯(ただ)一人というが、マレー作戦の勲(いさお)を、そして彼の情念の強さを想(おも)えば、社の佇(たたず)まいは寂寞(せきばく)の観を禁じ得ない。

(毎月1回掲載)