マレーの虎・山下奉文(中)二・二六事件で昭和天皇の顰蹙買う

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (13)

戦略史家 東山恭三

剛毅・豪放な外面、慎重・細心な内面 決起を促すかの発言

昭和17年7月、山下奉文(ともゆき)は新設される第1方面軍司令官に転補の命を受け秘(ひそ)かにシンガポールを離れ、ソ満国境に近い牡丹江に赴いた。防諜(ぼうちょう)を名目に発令は伏せられ、内地への立ち寄りも、マレー作戦に関する天皇への軍状奏上も許されなかった。今や国家的英雄となった彼が何故、凱旋の機も与えられず満蒙の奥地に送り出されたのか。

二・二六事件(昭和11年)

昭和10年3月、山下は陸軍省軍事調査部長に就任、前年には少将に進級し、エリートコースを走っていた。だがその後は第25軍司令官を拝命するまで、人事の主流から外れ不遇を託(かこ)つ時期が続いた。原因は二・二六事件だった。当時陸軍では、皇道派(天皇中心の革新論を唱え、重臣・政党・財閥を現状維持勢力として排撃する)と統制派(クーデターによる国家改造を否定し、合法的に高度国防国家樹立を目指す)が激しい主導権争いを演じていた。

山下は皇道派と目されていた。妻・久子が佐賀出身の永山元彦陸軍少将の長女だったことから、佐賀左肩党(陸軍佐賀閥)に属す皇道派の頭目真崎甚三郎との近さが噂(うわさ)された。また麻布の歩兵第3連隊長を務めた関係で、多くの青年将校が彼を慕い、その自宅を頻繁に訪れていた。

調査部長としての職責から、意図的に青年将校と接触を重ねた面もあるが、山下には当時の日本社会の貧困や政党政治の堕落を憤る青年将校と心情的に相通ずるものがあった。後に叛乱(はんらん)軍の首謀者となる安藤輝三大尉が訪ねた際には「岡田(首相)なんかぶち斬るんだ」と決起を促すような発言もしている。財閥を強く嫌う点も青年将校と共通していた。皇道派と見做(みな)された山下は、事件前から憲兵隊に自宅の電話が盗聴され、皇道派一掃を目指す林銑十郎陸相によって朝鮮への転出が計画されていた。

そうした中で二・二六事件が勃発、山下は陸軍と叛乱将校の連絡役となり、無血収拾に動くが、その心根は将校らに同情的だった。だが昭和天皇は叛乱への怒りを隠さず、武力鎮圧・奉直命令の下達が決まった。山下は叛乱将校に自決を促す一方、川島義之陸相と共に宮中に赴き、本庄繁侍従武官長に決起将校が望む勅使差遣(死出の栄光を与えるべく勅使を賜りたい)の伝奏を依頼する。しかし昭和天皇は「非常ナルゴ不満ニテ、自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使抔(など)、以テノ外ナリ」(『本庄日記』)と山下らの願いを退けた。「軍の威信を危うくする軽率な振る舞い」と天皇から強い顰蹙(ひんしゅく)を買ったこの出来事が、その後の山下の歩みを決めた。

“保身癖”難じる声も

情において青年将校に近い山下だったが、叛乱を煽(あお)った決定的証拠は認められなかった。豪放磊落(らいらく)に見えるが、実際の山下は実務処理に長(た)けた能吏であり、非常に緻密細心な性格ゆえ発言は常に慎重だった。相沢事件(皇道派の相沢三郎中佐が統制派のリーダー永田鉄山軍務局長を陸軍省内で殺害した事件)の際、山下は永田を惨殺した直後の相沢と陸軍省の廊下でばったり出くわしている。左手は血だらけ、しかも血に染まったマントを着ている異様な相沢に対し山下は、「ご苦労、あまり無理をするなよ」と声掛けしただけで立ち去っている。

二・二六事件では、陸相官邸玄関で叛徒の磯部浅一が山下に「やりました、どうか善処して戴(いただ)きたい」と訴えたが、山下はうむと頷(うなず)くだけだった。その後、青年将校の元を訪れ「陸軍大臣告示」を伝達した際も「軍は我々の行動を認めたのか否か」と将校らがいくら尋ねても、ただ告示文を繰り返し読み上げただけで引き返している。鎮圧後、叛乱将校の裁判に出廷した山下に対し磯部は「山下はヌラリと逃げて知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる」とその獄中日記に綴(つづ)っている。

視察団長としてヒトラー(中央)に謁見する山下奉文(ヒトラーの右)

公の場では発言を控え、己の立ち位置を曖昧にする山下を“保身癖の強い男”と難じる向きもある。「山下は責任の無いところでは大胆な放言をするが、肝腎な時には何も言質を与えない。相手には太っ腹な男だと思わせ、腹芸めいた仕草で以心伝心的にその意志を解釈させるが、どっちも解釈できるという逃げ口になる。狡猾で青年将校に阿った小心な男で、世間は風貌に胡麻化されている。“皇道派の雄”を気取り、皇道派の世を狙っていた出世主義の機会主義者(オポチュニスト)」(『二・二六事件』第二巻)と、松本清張の山下評も手厳しい。

立ちはだかった東條

叛乱鎮圧後、皇道派粛清の人事が断行された。予備役編入は免れたが、山下は朝鮮龍山の第40旅団長に左遷。その後も北支那方面軍参謀長、第4師団長と内地から遠ざけられた。一方、山下の1期上で統制派の東條英機は二・二六事件後急速に力をつけ、陸軍の人事を掌握する。若い頃の2人は共にドイツに留学した親しい間柄だった。だが派閥抗争の中で東條が山下を警戒、敵視するようになり、彼の復帰を阻んだ。

昭和15年7月、中学以来の友人沢田茂参謀本部次長の尽力で、山下は東條の後を受け航空総監として久々に中央復帰を果たす。しかし陸相となった東條が今後も山下が自身のポストを襲うことを恐れたためか、僅(わず)か半年で山下はドイツ派遣航空視察団長として海外に追いやられた。翌年には、新設の満州防衛軍司令官として再び大陸に転じる。その後、対米戦必至の情勢が山下を必要とした。だがマレー作戦で武勲を挙げながら、東條首相が彼の人気を妬(ねた)み「陛下の信あらず」を名目に、内地帰国を許さなかったといわれている。

(毎月1回掲載)