【上昇気流】(2022年6月23日)

鎌倉街道跡

中世東国の幹線道路には上道、中道、下道があった。いずれも鎌倉を起点にしていて鎌倉街道と呼ばれ、上道は武蔵府中を通過して武蔵野を縦断し、丘陵地の東縁をかすめるように北上して上野国に到(いた)る。

中道と下道はずっと東寄りだった。政治的、軍事的に最も重要だったのは上道。飛び飛びに遺構や交通集落の宿が見つかっている。これらの点をつなぐと一本の道になるが、定かでない部分も少なくない。

このルートのうち、埼玉県の毛呂山町内の一部区間と周囲の遺跡などが、国の史跡に指定されることになった(小紙6月18日付)。路面や側溝の遺構、宿場や墓域などが残され、街道の状況を伝えているという。

毛呂山町提供の上道の画像を見ると、雑木林の中に山道が続き、木漏れ日が道に明滅している。同じ道の東京都町田市の小野路道路遺構も訪ねたことがあるが、雰囲気は同じでいにしえの面影を伝えている。

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、鎌倉は東国最大の都市として発展し、各地へ通じる道も整備されていった。上道の場合、沿線には秩父平氏の畠山氏一族や、武蔵七党の本拠が連なっていた。

「鎌倉街道上道ルートマップ」(『武蔵府中と鎌倉街道』府中市郷土の森博物館)には、14の道路遺構や遺跡が明示されている。ここはまた鎌倉を目標とした合戦の舞台となった所だが、幕府の消滅で上道は衰退していく。こここそ中世の封建制度が形成された場所だったのだ。