明の成祖・永楽帝が北京に遷都して築いた承天門は、その後焼失し、清の世祖・順治帝の時代に再建されて天安門と呼ばれるようになった。その門前の天安門広場が6月4日(1989年)、血に染まった。
「人民の軍隊」と称する人民解放軍が牙を剥き、世界のジャーナリストの眼前で無辜(むこ)の民に発砲し、民主化の願いを戦車のキャタピラで踏みにじった。「六四天安門事件」である。
発火点となったのは、改革開放路線と自由化路線を打ち出した胡耀邦元総書記が同年4月に死去したこと。北京大学にこんな壁新聞が貼られた。「鄧小平は84歳で健在で、胡耀邦は73歳で先に死ぬ。政界の浮沈を問うも、なんぞ命を保つことなきや。民主は70にしていまだ成らず、中華は40にして興らず。天下の盛衰をみるに、北大(北京大学)また哀し」。
鄧は民主化運動を「動乱」と断じ、武力弾圧を命じた。70とは19年の五四運動以来の70年、40とは49年の建国以来の40年を指す。
それから33年が経過した。民主は103にしていまだ成らず、中華は73にして「党の天下」と化しジェノサイドの悪臭を放つ。民衆は今なお哀し。
2008年に後にノーベル平和賞を受賞した故劉暁波氏ら文化人が発表した「〇八憲章」は「人権災難と社会危機が絶えず発生し、中華民族の自身の発展を束縛し、人類文明の進歩を制約してきた」と共産党を指弾している。「民主が成るのはいつの日か」と6月4日に思案する。