散る桜の美学に自然の理あり

明日へのノート

桜並木

新年度が始まり、東京都心で今年初の夏日(最高気温25度以上)となった10日、近くの桜並木も遅咲きの桜の花までほとんど散って、葉桜並木になってしまった。

もう半世紀を超えて見慣れた風景ではあるが、今年は、近所の大きな桜の木を見ていて、それがちょうど3層になっていることを発見した。一番下に少し緑を濃くした若葉の層があり、その上に黄緑色の若葉が目立つ層があり、一番上はまだ残る桜の花と芽吹いたばかりの若葉が混在しているのだ。

近所で桜の花が早く咲き始めるのは、陽(ひ)当たりのいい場所にある木なので、1本の木を見ても陽当たりのいい、建物の陰にならない高いところから咲くのかなと思っていたが、そうでもないようだ。

「へー、桜の花って木の下の方から咲く(散る)のか」。最近はあまり湧かなかった好奇心に駆られてネットを調べてみると、「地面に近い方が気温が高いため」というのと、「花を咲かせるにも栄養が必要で、養分を吸い上げる根っこに近い下の方から咲いていく」という2説があった。桜の花の開花は気温と関係があると聞いているので、第1の説は納得できるが、第2説の方はそれだけ大きな要因なのか分からない。ただ、いずれにせよ、ちゃんと物理的な法則に則(のっと)って咲いているわけだ。

さて、桜は日本人にとって特別な花で、古くから和歌や俳句でもよく取り上げられてきた。特に、散り際に花びらが一斉に散っていく姿が、無常観や死と結び付いて、いわゆる「散り際」の美学というようなものを生み出してきた。

しかし、山桜などはぱっと散っても、その後には種の入った実が残される。ちゃんと子孫を残す手だてをして散っている。今の若者も若くして一花咲かすのはいいが、そんな自然の理(ことわり)は踏襲してもらいたいものだ。

(武)