【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(9) うやむやにされたミッドウェイ敗北の責任

ミッドウェイからサイパンへ その後の南雲忠一

自決迫った先任参謀、司令長官を解任した米と対照的

南雲機動部隊が攻撃機の目標をミッドウェイ島から敵空母に転じ、一度陸用爆弾に代えた兵装を再び魚雷に戻す転換作業の最中、直上に突如現れた米艦載機の急降下爆撃を受け、瞬時にして加賀、蒼龍(そうりゅう)、赤城の空母3隻は大火災に陥った。南雲は炎上する赤城から将旗を駆逐艦風雲(かざぐも)、次いで巡洋艦長良(ながら)に移す。その間、唯一健在の空母飛龍から飛び立った攻撃機が空母ヨークタウンを大破(後に伊号潜水艦の雷撃で沈没)させた。

しかし程なく飛龍も敵艦載機の攻撃を浴び大破、第2航空戦隊司令官山口多聞少将は艦長加来止男大佐と共に退艦を拒否し、沈む艦と運命を共にした。南雲は残存兵力を以(もっ)て米機動部隊を追撃、得意の水雷戦に持ち込んで一矢を報わんとしたが、米空母が東へ避退し距離が開いたため不可能となる。6月6日早朝、山本五十六はミッドウェイ作戦の中止を命じた。

長良の艦内では、大石保先任参謀が草鹿龍之介参謀長に「幕僚一同自決すると決したので長官にも善処を勧めてほしい」と南雲の自決を迫った。だが草鹿は「失敗を償い挽回することこそ本筋」と大石を説得する一方、自室に籠(こ)もる南雲に軽挙妄動せぬよう自重を促した。評価は分かれようが、部下の説得を受け赤城から退艦し、さらに自決も思いとどまった敗軍の将南雲の、山口多聞とは対照的な身の処し方が彼の評価を下げる一因となったことだけは間違いない。

その後、洋上で長良は主力部隊と合同、草鹿は報告のため戦艦大和に山本を訪ねた。この時山本は「南雲らを叱ってはいかんぞ」と部下に命じたという。「機動部隊の失敗は万死に値するが、できることなら現職にとどまり復仇(ふっきゅう)の機会を」と懇願する草鹿に、山本は目を潤ませながら「よく分かった」と応じた。南雲、草鹿は更迭されず処分も受けなかった。山本自身もミッドウェイの大敗について何らの責任も負わず、連合艦隊は敗北の究明をせず反省会さえ開かれることはなかった。

真珠湾奇襲の責任を問い、キンメル太平洋艦隊司令長官とショート・ハワイ方面陸軍長官を直ちに解任した米軍とはあまりに対照的な措置である。幹部の責任追及がなされぬ一方で、大敗の事実漏洩(ろうえい)を恐れた海軍中央は、内地帰還後も機動部隊の将兵を基地内に拘束し、多くの者が家族との面会も許されぬまま再び最前線に送り出された。

南太平洋海戦は勝利、米空母を撃沈も航空作戦は不可能に

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南太平洋海戦で米空母ホーネットを攻撃する日本軍機

昭和17年7月、南雲は新たな機動部隊となる第3艦隊の司令長官に、草鹿はその参謀長に就いた。南雲と草鹿のコンビは、ソロモンでのガダルカナル島争奪戦に加わり、8月24日ガダルカナル島北東海域で米機動部隊と遭遇、翔鶴(しょうかく)、瑞鶴(ずいかく)攻撃隊が米空母エンタープライズを大破させたが、日本も空母龍驤(りゅうじょう)を失った(第2次ソロモン海戦)。

続く10月26日、陸軍のガ島総攻撃に呼応しての南太平洋海戦では、米空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させ、米海軍は行動可能な空母を全て失った。わが方の被害は空母瑞鳳(ずいほう)、翔鶴の損傷にとどまった。これが、連合艦隊が挙げた最後の勝利となる。もっとも戦術的には日本の勝ちと言えるが、肝心のガダルカナル島の飛行場破壊は失敗、しかも多くの航空機と真珠湾攻撃以来の精鋭搭乗員を失い、以後、本格的な航空作戦は不可能になった。この海戦で南雲はミッドウェイの仇(あだ)を果たすが、座乗する翔鶴が被弾し北方に退避する中、空母隼鷹(じゅんよう)を率いる第2航空戦隊司令官角田覚治少将が南雲に代わり航空戦の指揮を執り奮戦、3度敵に肉薄攻撃を掛け勝ち取った戦果であった。ともあれ、この戦いを最後に南雲は戦場を離れ、佐世保鎮守府長官を拝命、1年を経ずして呉鎮守府長官に転じた。

死守を託されサイパン島に赴任、「我太平洋の防波堤に」

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サイパン島守備隊幹部と南雲中将(前列中央)

昭和19年4月、南雲は中部太平洋方面艦隊司令長官に親補された。東条英機首相から「サイパンが落ちれば自分は職を辞さねばならん」と声掛けされ、サイパン死守を託されての赴任であった。但(ただ)し艦隊の司令長官とは名ばかりで、司令部は船ではなくサイパン島の丘の上。壮行会の席上、南雲の顔色は冴(さ)えず、「今度ばかりは白木の箱か男爵さまだ」と呟(つぶや)いたが、空母などの艦隊指揮を執らない名目上の司令長官補職をどう見るか。

格は高く先任序列に沿った配置だが、南雲に再び機動部隊の指揮を委ねるわけにはいかぬとの日本的“空気”が働いたのではないか。また連合艦隊司令長官への途(みち)を事実上絶つ人事でもある。今後の戦局如何(いかん)では死に場所を与える含みもあったと思われる。もっとも、サイパンを訪れた草鹿に南雲は「米軍はサイパンなんぞに来やせんよ」と呑気(のんき)そうに答えている。また現地では、同じ山形出身の少女(菅野静子さん)と慣れぬテニスを楽しむなど束(つか)の間の穏やかな日々を過ごしたが、既に覚悟はできていたものと察せられる。

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サイパン島に上陸する米軍

米軍はパラオに向かうとの大本営や南雲の予想は外れた。連日の激しい艦砲射撃に続き昭和19年6月15日、米海兵隊が艦載機千機の支援の下でサイパン島に上陸。日本軍守備隊は奮戦したが、圧倒的な米軍を前に抵抗には限界があった。7月6日、海を見渡すことのできないサイパン山中地獄谷の司令部で、海軍中将南雲忠一は自決した。享年57歳。マタンシャの海岸で万歳突撃に加わったとの説もあるが、遺骸は発見されず真実は定かでない。「予ハ残留諸子ト共ニ、断乎進ンデ米鬼ニ一撃ヲ加へ、太平洋ノ防波堤トナリテサイパン島ニ骨ヲ埋メントス…続ケ」。南雲が在島全将兵に与えた最後の訓示である。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三

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