那覇市の護国神社 「みたま祭り」で伊藤博文氏が講演
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太平洋戦争終戦から78年を迎えた8月15日、沖縄県那覇市の護国神社で犠牲者を慰霊顕彰する「終戦記念日みたま祭り」が行われた。第2部の講演会で「伊藤半次『戦地からの絵手紙』館」の伊藤博文館長が、「戦時中の絵手紙で伝える家族の絆・平和の尊さ」と題して講演した。博文さんは「祖父が戦地から送り続けた絵手紙には、家族を愛する気持ちが溢(あふ)れている」として、「家族と国を愛し戦った人々の思いを伝えていくことが平和教育になる」と語る。(沖縄支局・川瀬裕也)
祖父の“思い”携え平和の尊さ伝える
4年間で400通、全国回り一般公開
伊藤博文さんの祖父、半次さんは福岡で老舗の提灯(ちょうちん)店を営んでいたが、昭和15年、27歳の時召集を受け、妻と3人の子を残し翌年、戦地へと向かった。提灯職人として絵が得意だった半次さんは、戦地から、沖縄戦で戦死する20年まで約4年間家族の元へ絵手紙を送り続けた。その数なんと400通。博文さんは残された絵手紙の一般公開を通して全国を回り、平和学習や講演活動を行っている。
絵手紙は平成15年に博文さんの祖母(半次さんの妻)が亡くなる間際に博文さんの父親(半次さんの息子)に託したもの。しかし博文さんの父親は実際この手紙にほとんど興味を持っていなかったという。生まれた直後に半次さんが召集されたため、父親である半次さんと過ごした記憶がほとんどなかった。さらに半次さんが送ってくる手紙のほとんどが兄と姉に関するものだった。
=8月15日、那覇市の沖縄県護国神社、川瀬裕也撮影.jpg)
そこで博文さんが絵手紙の解析を進めた結果、幼い子供がいる妻や義理の母を人一倍大切に気遣う内容を多く書いていたことが判明したという。そのことを病床で知ったという博文さんの父親は、73歳にして自分が父親から愛されていたことに気付き、このことを多くの人に伝えてほしいと博文さんに託した。
当時の軍事郵便は、内容が検閲され、不適切な内容(反戦、反体制、弱音など)の手紙は送ることすらできなかった。しかし半次さんの手紙には黒塗りや、消された跡はほとんどないという。
当時、軍事郵便があったとはいえ、これだけ多くの書簡を一人の兵隊が送ることは難しい。博文さんは、半次さんが部隊の他の隊員たちの手紙にも絵を描いてあげ評判となり、上官に近い立場で郵便を送ることができたのではないかと分析している。また半次さんの実家である伊藤提灯店のあるじは「伊藤喜平」という名を名乗ることから、海外からの郵便では送り主の名を「伊藤半次」と「伊藤喜平」で使い分け、より多くの絵手紙を家族の元に届けようとしたことがうかがえるという。
また、検閲をクリアするため、夫婦間でしか分からない合言葉があり、愛を伝えていたことも分かった。博文さんは手紙を解析すればするほど、半次さんが「あの手この手と機転を利かせて、一枚でも多く家族の元へ手紙を届けたかったことが分かる。それほど家族のことを愛していた」と振り返る。
博文さんは、「今の子供たちは、当たり前にSNSや携帯電話で大切な人や周りの人と話ができるが、それは実はありがたいこと。一緒に過ごせる感謝の気持ちを忘れてはいけない」と強調する。
半次さんの絵手紙の内容は、妻や子供たちが遊んでいる様子を想像して描いたものや、戦地で休日に部隊の仲間と釣りをする様子など、ほとんどが笑顔で笑っている。それには「家族一人一人を思いやり、安心させようとするだけではなくて、手紙を見た家族を楽しませて、励ましてあげようとする父親の強さも感じられる」と博文さん。「当時、戦地にいたご英霊お一人お一人もみな同じ思いだったのではないか」と強調した。
家族の元で再び幸せに暮らすことを夢見ていた半次さんだったがその願いは叶(かな)わず、昭和20年6月18日、沖縄県において戦死(32歳)となった。
沖縄県内では、平和教育において、自虐的な歴史観や当時の日本兵に対するネガティブな論調がクローズアップされがちだが、過酷な状況でも家族を思いながら戦い、戦死していった半次さんの遺(のこ)した絵手紙が伝える当時の家族愛もまた、後世にわたり顕彰されていくべき戦争の側面だと言える。「家族と国を愛し戦った人々の思いを伝えていくことが平和教育になる」と博文さんは語る。
現在、福岡県の九州芸文館で、「戦地からの絵手紙展」(10月1日まで)が開催されており、半次さんの絵手紙の実物を見ることができる。