台湾の穀倉地帯を造った八田与一

金沢市の市立花園小学校の教室に偉人館

八田与一像

石川県金沢市の市立花園小学校には、『花園偉人館』と名付けられた教室がある。同校の出身で、「台湾農業の大恩人」とたたえられる土木技師・八田与一(1886~1942年)の業績を児童に伝えるため、30年余り前に設置された。児童や保護者は自由に入室でき、農業分野で国際的に貢献した大先輩に、身近に触れることができる。また、技師を慕って、全国から見学者が訪れている。(日下一彦)

塩害〝不毛の地〟に水利事業

現地の人に好かれた日本人技師

教室のドアを開けると、芳名帳が置いてある。見ると、金沢市内に限らず愛知県や長野県など県外からの名前も記され、同技師の業績が広く知られていることが分かる。同偉人館は平成5(1993)年に、大先輩の足跡を児童に知ってもらおうと開設された。

花園偉人館には八田技師の写真と関連図書、台湾・嘉南小学校との交流が紹介されている

来館者から寄せられた感想を見ると、「八田さんは工事のことだけを考えているんじゃなくて、働く人やその家族のことも考えて、すごいと思った」「日本人の銅像が壊されていく中、八田さんの銅像だけは守られていたので、それだけ現地の人に慕われていたんだなあと思った」「八田さんみたいに、私も人の役に立ちたい」など率直な感想が並んでいる。

このように、児童の心を動かしている八田技師は、台湾で塩害のために“不毛の大地”と呼ばれていた西南部の嘉南平原を潤すため、長さ約1・3㌔に及ぶ烏山頭(うざんとう)ダムと総延長1万6000㌔の給排水路を立案設計し、10年の歳月をかけて、昭和5(1930)年に完成させた。これは地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。ちなみに嘉南平原は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地だ。

灌漑(かんがい)用水は「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれ、給水が始まると効果的な水利用を図るための「三年輪作給水法」を指導した。そこで暮らす農民すべてにダムの水の恩恵が行き届くようにと、米だけでなくサトウキビと豆類の三年輪作を奨励し、3年に1度水稲を作るように土地の3分割を考案したのだった。これが後に世界的に知られる三年輪作のシステムとなった。その結果、同平原は台湾一の穀倉地帯に生まれ変わった。こうして八田技師は「嘉南大圳の父」と慕われ、中学校の教科書にも登場している。

同技師の名前は日本ではあまり知られていないが、土木工学の権威だった高橋裕氏(故人)は「貧困にあえぐ台湾の農民を救いたいとの動機で水利事業に取り組み、現地に骨を埋めるつもりだった。真の国際人とは八田技師のような人物です」と称賛している。

同技師は明治19(1886)年、農家の五男に生まれた。家は真宗の信仰が厚く、「多利即自利」の精神が日常化していた。金沢の第四高等学校を経て東京帝大土木科を卒業している。四高時代の恩師に『善の研究』で知られる哲学者西田幾多郎がおり、西田から人間形成に大きな影響を受けたと述懐している。大学卒業と同時に、当時日本の植民地だった台湾に渡り、総督府の土木技師として任に当たった。24歳だった。

台湾は地震国のため、堰堤(えんてい)の強度を保つにはコンクリートをあまり使わず、現地の地質に合った工法を駆使して、土を盛り上げて自然に近い形でそれを築いた。水量も計算すると、6万ヘクタール分しか灌漑できないため、15万ヘクタールの同平原を灌漑するには前述の三年輪作を奨励することになった。

八田技師の理念はダム建設にとどまらず、そこに従事する人たちの福利厚生にも注がれている。「良い仕事は安心して働ける環境から」と小学校や病院、購買部、娯楽施設、寄宿舎などを整え、工事中に事故や病気で亡くなった人たちの名前を刻んだ殉工碑も建てた。こうした経緯もあって、技師をたたえる銅像が、昭和6(1931)年、烏山頭ダム近くに建てられた。

それも台座の上から見下すような居丈高な像ではなく、土手に腰を下ろしてダムを見詰めるごく自然で、人間味あふれる像だ。地元農民が作り、背後の日本式の墓も彼らの手によるものだ。

墓石の文字も朱色に塗られている。台湾の墓は、仏や神のように人々から慕われる人物の名前を赤く塗る風習があるという。感動的なエピソードも伝えられている。敗戦で台湾各地にあった日本人の銅像が民衆によって次々と破壊される事件が勃発したが、同技師の銅像だけは地元の農民らによってひそかに守られ、騒ぎが収まると、再び烏山頭ダムを見下ろす丘の上に設置された。毎年命日の5月8日には、墓前祭が厳かに営まれている。

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