関心高まるポーランド孤児救済

福井県敦賀市 「人道の港 敦賀ムゼウム」が企画展

敦賀港に立つ「人道の港敦賀ムゼウム」

福井県敦賀市の「人道の港 敦賀ムゼウム」では、ポーランド孤児救済100周年を記念した企画展「桜咲く国~388人の子どもたちが過ごした日本~」が開かれている。孤児たちが帰国の途中に上陸した敦賀港で、市民に温かく迎えられたことや、孤児たちの様子、支援の輪の広がりなどを手記や聞き取り調査などで紹介している。(日下一彦)

100周年記念し手記や聞き取り調査紹介

「『桜咲く国・日本』との間にあった絆を知ってほしい」

ロシア革命(1917年)後、内戦状態にあったシベリアで、家族を失い、過酷な状況にさらされていたポーランドの孤児たちを帰国させるため、アメリカの赤十字社が中心となり、日本を経由して無事に送り届けた。1920年から2年間かけて、合計763人の孤児が敦賀港に上陸した。タイトルにある388人とは、第2次の受け入れ人数だ。その時から今年で100年になる。展示では、特に関わりの深い大阪や敦賀の様子などに焦点を当てて紹介している。

敦賀に上陸したポーランド孤児たち(敦賀市提供)

敦賀の人々は当時、過酷な運命にあった孤児たちを温かく迎え、菓子や玩具、絵葉書などを差し入れ、宿泊所や休憩所などを提供して子供たちを励ました。救済はその2年前にも行われた。

記録では、孤児を哀れんだ敦賀市民が、自分の着ていた服のうち最もきれいな衣服を脱いで与えたり、髪を結っていたリボンや櫛(くし)、飾り帯、さらに指輪までも惜しみなく彼らに与えたという。その様子を幾つか拾ってみる。

「敦賀の人たちは孤児たちが到着するたびに、町を挙げて歓迎しました」「港は人であふれていました」「船から降りると、ある子供にはポーランドの旗を、次の子には赤十字の旗を、別の子には日本の旗を渡してくれました」「『バンザイポーランド バンザイコドモポーランド』と叫んでいました」など、歓迎の様子を伝えている。

さらにポーランドの子供たちは「私たちは裸になり消毒液の入ったプールに入りました。そこから出ると新しい服が用意されていました」「玄関で日本人が出迎えて到着を祝ってくれ、靴を脱ぐように言いました。靴がない人は足を洗うように言いました」「昼食は床にある草のマットに置かれ、私たちは日本人のように足をたたんで座りました」「昼食はとてもおいしかったです。昼食の後、お菓子を頂きました。これは敦賀の人たちからのプレゼントだと言われました」。ひと時の休憩の後、孤児たちは列車で敦賀を出発し、東京や大阪の収容施設へと向かった。その列車の中でも「ぎゅうぎゅう詰めの列車に押し込められると思っていましたが、柔らかいソファがある一等席に乗せてくれました」と記している。

到着すると、病気やケガをしている孤児への治療が行われている。ある女児は「私は病気でした。シーツにくるまれ鼻先にキスをされました。看護婦さんは優しくて世話をしてくれた日本人は笑顔でいい人たちで、私たちをとても気遣ってくれました」。

こうして当初は青白い顔だった孤児たちも、1日3度の温かい食事を取ることで次第に元気になり、毎日外で遊び回り、年の大きい子供たちには読書や算数が教えられた。インタビューでは日本の童謡「うさぎとかめ」を歌いだす孤児もいたという。

その後、孤児たちは太平洋、大西洋を船で横断し約3カ月の大航海の末に無事、ペトログラードの家族の元に帰還することができた。同展示の担当者は「ポーランドでは、日本を『桜咲く国』と親しみを込めて呼ぶことがあるが、両国の間にこうした絆があったことを知ってほしい」と話している。

「人道の港 敦賀ムゼウム」は2年前に新たにリニューアルした。「ムゼウム」とはポーランド語で「資料館」を指している。敦賀が「人道の港」を呼ばれるのは、このポーランド孤児の物語と共に、もう一つ難民上陸の歴史があるからだ。孤児たちが上陸してから20年後、リトアニアの外交官だった杉原千畝がユダヤ人に「命のビザ」を発給し、救われたユダヤ人が上陸したのもこの敦賀だった。

同展は9月30日(金)まで、休館日は水曜日。入館料=一般・大学生・中高生500円、小学生以下300円。

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