素朴な野相撲の古式を今に伝える 石川県羽咋市の唐戸山神事相撲

「水なし、塩なし、待ったなし」で知られる唐戸山神事相撲。かがり火が焚かれ、野相撲の古式が受け継がれている=石川県羽咋市で

毎年、9月25日に石川県羽咋市で開催されている唐戸山神事相撲は「水なし、塩なし、まったなし」で知られる。伝承では、この地域を開いた羽咋神社の祭神の追善相撲といわれ、2000年の歴史を持つ。日本の古代相撲のルーツは、東アジアから朝鮮半島を経由して伝わったとされるが、神事相撲は素朴な野相撲の古式を留めている。(日下一彦)

「水なし、塩なし、待ったなし」

学生時代の遠藤関や輝関出場

角界では新十両の大の里関が注目を集めている。「相撲王国」と言われる石川県の出身だ。現役力士では人気の遠藤関をはじめ輝関、ケガで休場している炎鵬関らが名を連ねる。学生時代には遠藤関、耀関が神事相撲の土俵に上がっている。

神事相撲の特色を一言でいえば、「無い無い尽くし」だ。仕切り直しがない、「待った」もない。両者にらみ合うと一気にぶつかる。大相撲や実業団、高校相撲などと比べると、至って簡素だ。

さらに土俵の周りには四本柱がなく、当然屋根もない。赤々と輝く光源もなく、土俵を照らすのは、四方に焚(た)かれたかがり火だけ。しかし、薄明かりの中の熱戦は、神事相撲の雰囲気をいやが上にも盛り上げる。

夕刻5時すぎに協賛相撲が始まり、神事相撲が始まる頃には9時を回っていた。例年、200人余りの観衆が熱戦を見守っている。唐戸山は山とは名ばかりで、砂丘地にできたすり鉢状の凹地(くぼち)で、周囲が約200㍍、高低差約7㍍で、底の部分に土俵が作られ、斜面が格好の桟敷席になっている。

呼び名も「東」「西」でなく、「上山」「下山」。出場力士は同市の東に広がる邑知(おうち)潟を境に、南の加賀、越中(富山)方面が上山、北の能登が下山となる。昔風にいえば、加越能三州で、そこに20代から40代の力自慢100人余が一堂に会する。50代も珍しくない。コロナ禍で2年間中止され、昨年は3年ぶりの開催となった。

神事相撲は前弓、中弓、奥弓と続き、奥弓がハイライト。それぞれ上山、下山に分かれ、前弓、中弓では2番勝負を競う。勝った力士が土俵に残って次と対戦する。勝てば、さらに3人目、4人目と続くが、力が拮抗(きっこう)しているので、そうそう続けては勝てない。ひいき力士が土俵に上がると、桟敷からヤンヤの声援が飛び交う。

土俵の周囲には、奥弓で対戦する上山、下山それぞれの大関候補の幟(のぼり)が林立し、かがり火に照らされている。前弓、中弓はあくまで前座、奥弓の一番になると、例年10時を回っている。対戦する力士は「大関」と呼ばれ、半年前ごろに同相撲の実力者から成る「親方」の推薦を受ける。2人が土俵に上がると観客は総立ちになり、大歓声がすり鉢全体に広がる。

ここからが神事相撲の真骨頂。実は勝負が付かないのだ。というより、行事を巻き添えにして、わざと、ほぼ同体で土俵に落ちる。行事は二つの巨体に押しつぶされ、どちらが勝ったか分からない。土俵の周りには8人の審査役が見守るが形だけの協議で、勝負のゲタを羽咋神社に預ける。そこで両大関は、同僚の組む肩車に乗って、“ワッショイ、ワッショイ”の掛け声と共に、1㌔余り離れた同神社の拝殿に駆け込むという筋書きだ。

同神事相撲の由来は、羽咋神社の祭神・磐衝別命(いわつきわけのミコト)に始まる。ミコトは身体を強くするために相撲を奨励したという。命日が今月25日とされる。一方、こんな伝承も残っている。ミコトが亡くなると村人たちは墓(大塚)を作り、その土を取った跡が唐戸山で、この時に働いたのが唐人(からびと)だったことから「唐人山」と呼び、「唐戸山」になったという。同地ではミコトの霊を慰めるために、追善相撲が行われるようにもなったという。

これまで民俗学者も観戦に訪れ、その中の一人で歴史学者だった花園大学客員教授の故姜在彦さんは、「仕切り直しがなく、初めから組み合って相手を倒す。モンゴルや朝鮮の相撲に似ており、日本の相撲の原型ではないか」と指摘していた。また、「『唐(から)』は韓(から)に通じる」との説もあり、渡来文化の影響をうかがわせる伝承だ。

日本の古代相撲のルーツは、朝鮮半島・高句麗とされ、その都のあった現在の中国吉林省集安の古墳から、力士図を描いた壁画が見つかっている。相撲の記述は「日本書紀」が伝える垂仁天皇7年の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の力比べが最古で、両者とも葬事の家柄であることから、日韓の古代史に詳しい同志社大学教授の故森浩一さんは、「葬送儀礼との関連」を指摘している。

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