義務教育に広がる「ジェンダーレス制服」の弊害

記者の視点 

制服や運動着を変えても異性への尊敬心は育たない


東京の地下鉄に乗っていたら、真向かいの席に座っていた女子高生の制服が目に留まった。ブレザーにネクタイ、下はスラックス。男女で区別しない「ジェンダーレス制服」を導入する学校が増えているが、彼女の制服がそうなのか。

だが、男子校に通い、セーラー服姿に憧れた筆者にはいまひとつピンとこない。どこか無理があるようにも感じる。昭和の時代に高校生活を送ったおじさんの「バイアス」がそう思わせたのかもしれない。

ジェンダーレス制服は義務教育にも広がっている。宮城県白石市の市立白石中学で4月から、「生徒主体でジェンダーレス運動着」を導入する。それを報じた時事通信によると、生徒会長(女子)が国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」を意識した学校づくりを校長に訴え、35年間続いてきた男子が青、女子がピンクの運動着を男女同一に変えることになった。別の報道では、女子は制服としてスラックスも選べるように改めるという。

ここで気になったのは、SDGsに対する誤解があることだ。SDGsが掲げているのは「ジェンダー平等」。男女を区別しながら、その平等を目指すもので、区別そのものをなくすことではない。それなのになぜ「平等」ではなく「レス」なのか。

ジェンダーは「生物学的な性別」に対して、「社会的・文化的につくられる性別」と説明されることが多い。もともとはフェミニズム運動から、体の性は変えられないが、社会的に構築された女性に対する意識(固定的役割分担など)は変えられる、と主張するために採用された言葉だ。

長い歴史を持つ文化・伝統の意義と、差別解消の両方の視点からSDGsを学び、守るべきものと変えるべきものを峻別(しゅんべつ)する力を身に付けようというなら歓迎したい。しかし、ジェンダーが反体制運動の武器として登場したが故に、その視点に立つとき、「“女子がピンク”はバイアスではないか」と、現状(体制)に違和感を覚えやすくなる。文化・伝統への学びが浅く、思考が柔軟な若者は特にその傾向が強くなる。

制服や運動着を変えることについては、生徒の「主体性」が強調される。しかし、彼らがジェンダーという言葉が生まれた背景を詳しく学んでいるとは思えない。男女区別をなくさないと、平等にならないと思い込んでいるとするなら、既にこの言葉の持つ誘導性の罠(わな)に陥っているのではないか。

筆者は白石中の生徒たちと同じ宮城県で中学時代を過ごした。当時、母校の運動着の色は男女とも同じグリーン。女子生徒の制服はスカートとスラックスのどちらでも選べたが、多くはスラックスを着用していた。それは田舎で自転車通学が多い上に、冬の寒さ対策からだった。男女区別をなくすためではなく、そこには現実を直視した、めりはりの利く教育があった。

ジェンダーレス制服で、もう一つ気になったことがある。男女区別について、その教育的意義を軽視することのマイナス面だ。心理学研究者で日本ユング研究会会長の林道義氏は、男女区別否定の弊害について「双方がそれぞれ『男らしさ』と『女らしさ』を失う結果、互いに相手に対する尊敬や憧れる心理が薄らぎ、カップルを作る心理的動機が弱くなる。そのため身体的接触や性的交渉に対する抵抗感は減少するが、しかし相手の性に憧れたり、神秘的に美化したり、人格として認めて尊重し心理的な愛情を育てるという傾向は少なくなる。一口に言えば、男女のあいだの必要な距離感がなくなるのである」(『家族を蔑(さげす)む人々』)と分析している。深刻化する少子化の淵源を見る思いがする。

社会部長 森田 清策

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