家庭
2008年6月30日

夏目漱石

英国人はどう読んだの?

発展していくアイデアの数々/小説には人間味と思想が必要


picture
ダミアン・フラナガン著『世界文学のスーパースター夏目漱石』(講談社インターナショナル)

  明治の文豪、夏目漱石の作品は今も読まれているし、それに関する随筆や研究も次々出されているので、今も生き続けている作家だと言っていいと思う。

 今年は東北大学が創立百周年を迎え、その記念としてこの春に行われたのが「学都に息づく夏目漱石の精神」展だった。ここでは大学付属図書館の「漱石文庫」に保存されている貴重な資料が展示された。

 同じ町の仙台文学館では、漱石の写真や肖像から顔かたちを特定し、そこから発声器官をコンピューターで電子回路に置き換え、その声を復元するという面白い試みも行われた。


 綾 楽しそうな展示ね。どんな声だったのかしら。


  聞いていないので残念なのだが、明治三十年に熊本の第五高等学校の創立記念日に教員総代として述べた祝辞の一部が復元されたそうだ。


 綾 きょうは漱石がテーマなんでしょう。私、高校の授業で『こころ』を読んだわ。よく分かんなかったけど。


  その面白さや深い味を知るには、いろいろ経験したり、勉強したりする必要があるからね。ところで、綾に、いい参考書を見つけてきたよ。


 綾 どんな本?


  ダミアン・フラナガンさんという英国人が書いた『世界文学のスーパースター夏目漱石』(大野晶子訳、講談社インターナショナル)だ。彼は英国人のために、漱石が留学したロンドンを舞台に書いた小品集を英訳した人でもある。


 綾 どうしてその本を薦めるの?


  一つは、彼の漱石研究の視点が、これまでの日本人による研究の盲点を突いているからだ。もう一つは、英文学者でもある彼は、漱石について、シェークスピアと並ぶ「世界文学の帝王」と位置付けていることだ。

 大げさだという人もいるが、確かにフラナガンさんは、漱石が「世界文学の帝王」の名に値するということの論証を、きちんとしている。


 綾 お父さんのいう日本人の盲点とは何なの?


  「彼の作品が重要なのは、その作品にふくまれ、発展していくアイデアが途方もなくすばらしいからである」と彼は書いている。このアイデアということなんだ。

picture
漱石が明治36年から39年にかけて住んだ住宅=明治村(「明治建築の旅」藪野健、三浦朱門著、新潮社より)

 綾 どういうこと、よく分からないわ。


  小説には思想と人間味と両方が必要だ。哲学者のアイデアは時々常識的な現実味を欠くことがあるが、文学はそれを血の通った人間によって表現している。哲学と同じように文学にも思想が不可欠なんだ。

 そのアイデアがどう展開したかの例として、英国を舞台にした三つの作品を挙げている。ここでのアイデアは「時間と存在の本質」あるいは「記憶と意識の作用」だ。

 『倫敦塔』では、過去があらゆるものを吸収し「現在」のはかなさをあざ笑う。『カーライル博物館』では、ミステリアスな過去と対面するが、日常からの逃避が不可能であると示される。『永日小品』では、ロンドンという街全体が超現実な場所へと変容していく。

 何か分かった?


 綾 漱石は、前作との対比、あるいはアンチテーゼという形で作品を書いたの?


  そうなんだ。新作には前作とは正反対のアイデアが盛り込まれている、ということを、フラナガンさんはその作品の全体に見いだした。


 綾 ほかに例を挙げてみて?


  『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』でのキーコンセプトは「冒険」だと論じている。そしてその「冒険」というコンセプトに引き付けられたのは、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』をじっくり読んだことによると言っている。


 綾 冒険ってどういう意味?


  勇気を奮い起こすこと、危険を顧みないこと、理性に縛られないこと。


 綾 怖いわね。


  それが人生の根本問題だからだ。漱石の弟子たちは漱石のことを「ヘーゲル哲学」的な思考の持ち主と言ったそうだ。どんなことにも反対意見を述べ、どんなテーマにもアンチテーゼを突き付ける。そうしてより深い真実にたどり着こうとした。


 綾 なるほどね。


  漱石の作品の主人公は漱石の分身で、彼の私的な生活を反映している、という観点から見ている研究者がいる。吉本隆明さんなんかがそうだが、フラナガンさんは漱石はそんな作家ではないと言う。微妙な哲学的コンセプト、文学的シンボル、芸術的なモチーフにあふれているというんだ。弟子の証言もフラナガンさんの考えを支持している。


 綾 どこで判断が分かれるの?


  漱石の学んだ英文学をどう位置付けるかの違いだと思う。

 さっき挙げた東北大学付属図書館の「漱石文庫」のリストを見ると、洋書が千六百四十七冊ある。多くが文学関係だが、原田隆吉氏の調査によると、本には書き入れがあり、その割合の最も多いのが哲学だった。フラナガンさんは漱石が哲学をよく勉強していたことを押さえて、日本人読者の盲点を指摘したんだ。

(増子耕一)

(本紙掲載6月29日)


この記事を友達に教える

父と娘の時事問答HOME

(C)Sekai Nippo Co.Ltd(1975-) Tokyo,Japan.
voice@worldtimes.co.jp