政治家の資質としての「均衡感覚」


韓国紙セゲイルボ

深刻な野党指導部の歴史認識発言

 第一野党、自由韓国党の歴史認識発言が目も当てられない。朴槿恵前大統領の弾劾から光州民主化運動(保守派は光州事件・暴動と呼んだりもする)、反民特委(=反民族行為特別調査委員会。1948年制憲議会に設置された親日派処罰のための特別委)まで、テーマもさまざまだ。特に党代表など指導部が論議の中心に立って、党の“退行”を主導している格好だ。

自由韓国党の羅卿★・院内代表

10日、ソウルで記者会見する韓国野党・自由韓国党の羅卿★・院内代表(時事)

 黄教安代表は先月の党大会で朴前大統領の弾劾について、「手続き的に問題があり妥当でもない」と述べた。批判が出ると「憲法裁判所の決定を尊重するが、手続き上問題があるといったもの」と一歩退いたが発言は撤回しなかった。

 羅卿★院内代表も、「反民特委によって国民が分裂した」と発言して論議を招いた。後に「悪いという意味ではない」と鎮火に出たが、独立活動家の子孫たちは「事実歪曲(わいきょく)」「親日派の論理」だと猛反発した。

 韓国現代史の悲劇である光州民主化運動も例外ではなかった。金順礼最高委員は先の党大会で同民主化運動の有功者を「怪物集団」と呼び、李鍾明議員も“北朝鮮軍介入説”を提起して正当性を否定した。

 もちろん同党指導部の立場を理解できないわけではない。黄代表や金最高委員は党大会勝利のために場を主導する“太極旗部隊”の支持が必要だったはずであり、羅院内代表も“国会内の指令塔”として鮮明な対決構図をつくり出して野党の存在感を際立たせたかったのだろう。

 だが論議になった歴史認識発言は事実も違っていたが、大韓民国の基本価値の一つである「法治主義」の否定という点で問題が深刻だ。朴前大統領の弾劾は国会の訴追案可決と憲法裁判所の認容決定という憲法上の手順を踏んで行われた。光州民主化運動も政府の調査と裁判所の判決等で既に数回結論が出た。反民特委もやはり1948年制憲議会が制定した法律により設置運営されたではないか。

 すなわち裁判所が事実を確認し憲法または法律の手続きによってなされた公的行為や評価を否定するものであるのだ。しかも政治家や公党の歴史認識発言は高度な政治行為だという点から戦略的にも不適切。誤った歴史認識発言によって対立を助長し、さらに未来に進む道さえ遮るものだ。

 政治家と政党の歴史認識は、特定の歴史的事件に対する自身の見解が絶対的に正しいと信じても、客観的な均衡感覚がなければならない。社会学者マックス・ウェーバーは著書『職業としての政治』で、政治家の資質として情熱、責任感と均衡感覚(日本では判断力とされる)を強調しているではないか。

 適切な均衡感覚を持った歴史意識は時には対立の克服を超えて、未来に進む道を開いたりもする。歴史だけを記憶する政治も未来がないが、歴史を忘れた政治もまた未来がない。進歩とともに保守も生きてこそ、韓国政治が生きるという点で、正しい歴史認識で武装して、正しく立つ韓国党を希望するのはとても遠い話なのか。

(金ヨンチュル政治部長、3月20日付)

★=媛の女へんを王に

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

ポイント解説

自己中心の歴史認識

 韓国は国内でも歴史認識問題を抱えている。右と左、保守と左派で歴史的事件の解釈が違うのだ。「反民特委」は独立後、日韓併合時代の“日本協力者”を裁いた。光州事件では「北朝鮮の介入」疑惑が相変わらず消えない。朴槿恵弾劾に至っては憲法に基づく弾劾と言いながら、事実上のクーデターに等しかった。

 物事は見る角度で全く違う。この三つの事件も保守と左派とでは解釈が違う。保守と左派は野球の試合のように政権を取り返しては“報復”を繰り返してきた。そのたびに報復の根拠として歴史的事件の解釈がひっくり返る。

 「法治主義」を基本的価値だとしながら、国と国が結んだ協定や条約を覆すことは意に介さない。現在の日韓関係には“均衡感覚”などなく、自身の解釈が「絶対的に正しい」と譲らない。そんな自画像には目が向かないところが韓国言論空間の特長だ。

 保守系紙の政治部長にして、この認識であるところをみれば、この世代(いわゆる386世代)特有の偏った歴史観の深刻度が分かろうというものだ。