張成沢氏処刑に沈黙した韓国


韓国紙セゲイルボ

政府・左派、「非人道的」非難せず

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北朝鮮の平壌で開かれた党政治局拡大会議中に連行される張成沢氏(中央)の様子を報じた朝鮮中央テレビの映像=聯合ニュースが12月9日配信(AFP=時事)

 筆者は「送年の辞」を兼ねた反省文を書きながら、この1年、何を大きく間違え、許しを乞うべきかを考えた。長く考える必要はなかった。北の「張成沢(チャンソンテク)の死を悲しまなかったこと」がすぐに浮かび上がった。

 生命の尊重を人間最大の徳性と習い、今でもそのような価値観には変わりはない。誰も人の死の前では厳粛になり、敬虔(けいけん)になるものだ。だが、筆者は張成沢の死、厳密には彼の処刑を興味本位にしか見なかった。

 「気の抜けた拍手をした」とか、「姿勢が傾いていた」といって、一人の人間が死刑にされた。あきれた話だ。処刑のニュースから1日2日たってみて、「文明社会とは何か」という本源的問いの前に立っている自分を発見した。

 文明社会は理性が支配する。不完全だが法と制度と常識が律する社会だ。生命、自由、人権、正義という高貴な価値も理性の土台の上で構築されたものである。

 張成沢は反党・分派分子であり、北の法規で死刑以上の極刑に処されなければならない理由が千種類、万種類になるかもしれない。死体を溶鉱炉に放り込んでも当然な極悪非道な人間なのかもしれない。

 仮にそうだったとしても、彼も人間としての尊厳は最小限尊重されなければならない。彼の死にも哀悼と弔問はなければならない。公開の裁判を受ける権利、弁護人の助力を受ける権利も保障されなければならない。尋問過程で拷問を受けないことはあまりにも当然だ。

 後になって彼の死がもたらす悔恨に身震いする。米政府が「極度に残忍な行為」と憤慨した。そうしたところで、彼が生き返るわけでもなく、彼の怨恨が晴らされることもないが、それが文明社会の当然の反応だ。

 大韓民国の反応が奇怪であることは言うまでもない。北の反倫理的、非人道的措置に沈黙一色なのだ。政府は北におもねって、韓半島に非常事態を招くかもしれないという小心症で、精いっぱいの低姿勢を取ったのか。従北、親北、容北、容共志向の左派勢力や団体は“身内”のことであるから、口を閉じたのか。

 その他、多くの人権団体、宗教団体はなぜ張成沢の死に素知らぬ素振りをするのか。数十年前の「疑問死」もほじくり返す人権関係者はどこへ行ったのか。「沈黙と傍観が犯罪だ」と罵倒した“行動する良心勢力”は生きているのか。

 われわれは口を開けば「南と北は一つの民族だ」という。“民族同士”という包装紙で包めば、石も金として受け入れることを躊躇(ちゅうちょ)しなかった。明らかに同じ同族の北で、凶悪非道の犯罪が行われた。真に同族なら、手厳しく叱責して正す労力を惜しんではならない。

 2013年はまだ終わっていない。張成沢の死後、広まり始めた血の霧(粛清)を見逃してはならない。

(曺炳喆客員論説委員、12月21日付)