雨森芳洲と李藝の「誠心外交」 韓日は誠心で事に当たれ


韓国紙セゲイルボ

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5日、ソウルで行われた「光復節」の記念式典で演説する韓国の朴槿恵大統領(AFP=時事)(右)と全国戦没者追悼式で式辞を述べる安倍晋三首相=15日午前、東京都千代田区の日本武道館

 「誠意を尽くす」(誠心)は世の中を変える驚くべきものだ。計量することは難しいが、行き詰まったことを解いたり、よじれた関係をほどいてくれたりもする。時には国家間関係も変えたりもする。

 壬辰倭乱(文禄の役)などを除いて、日本の植民支配前まで朝鮮と日本が永らく善隣関係を維持できたことも、誠心を基盤とした外交があったから可能だった。

 雨森芳洲(1668~1755)。彼は日本の立場で朝鮮と善隣外交を主張して展開した江戸時代の外交家だ。22歳の1689年、師匠の儒学者木下順庵の推薦で対馬藩に奉職し、1693年から対馬で朝鮮との交渉役となった。

 彼が注目されるのは著書「交隣提醒」で、対朝鮮外交で相互理解と尊重を強調して「誠心外交」を主張したことだ。善隣のために朝鮮の風習と慣習をよく理解し、文化や風俗の違いを尊重しなければならないと強調した。

 日本に雨森がいたとすれば、朝鮮には李藝(イイェ)(1373~1445)がいた。15~16世紀の朝日通交の根幹になった癸亥約束条項の締結(1443年)を主導し、粘り強い「誠心外交」で対日関係を切り開いた外交家であった。

 蔚州で生まれた彼は8歳の時、母が倭寇に拉致された。1397年、蔚山郡守が倭寇に拉致されると、李藝は進んで一緒に連れられて行き、朝鮮に戻った後、外交官となった。

 世宗も1426年、「(日本を)知らない者は送ることができないから、あなたを送るので、面倒とは考えるな」として、彼を対日外交に送り出した。癸亥約束条項で倭寇侵略は消え、対日関係はかつてなく安定的だった。

 日本敗戦日の15日「全国戦没者追悼式」で1994年以後、歴代首相らが明らかにしてきた「アジア各国に対する加害の責任」を2年連続言及しなかった安倍晋三首相。果たして誠心外交を考えているのかどうか。

 やはり光復節の祝辞で、日本軍慰安婦問題解決だけを促したまま、関係改善のため具体的な代案を提案できない朴槿恵(パククネ)大統領も物足りないのは同じだ。最悪となった昨今の両国関係には両国指導者の責任も大きい。

 栗谷李珥(ユルグクイイ)先生は「萬言封事」で当時の人々にこのように忠言した。「いわゆる実質的な功というものは、事に当たって、誠心を込めて行い、口先だけの言葉を吐かないという意味だ。…実質的な功がない段階で、どうして実質的な効果がないといい切れるのか?」

 何の気持ちを伝えようとしているのか、外ではセミが鳴いている。

(金湧出〈キムユンチュル〉東京特派員、8月19日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。