書評
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何の因果で

ナンシー関

心とらえるテレビ批評

 これは、評者の勝手な思い込みかもしれないが、書いた内容にどんな批判があろうと、誰がなんと言おうと私にゃ、あんたの唯一の理解者よ、と思わせるコラムがあった。それがナンシー関のコラムだった。

 ところが、彼女の急死を告げる各紙の死亡欄そして、その後の死を惜しむ記事や特集が出るに及び、自分だけが彼女の熱烈な「理解者」ではなかったのだ、という、一抹の寂寥(せきりょう)感を感じたのである。

 冷静に考えれば(いや、普通に考えてもだが)、連載した雑誌が十誌を超え、中には「週刊朝日」のように足かけ十年の長期連載も、多くの根強い固定ファンがいたからこそであろう。

 客観的には自分と同じように熱烈なファンがいるだろうことは分かりきった話なのだが、「自分だけがそのすごさを知っていたナンシー関」ではなかったのである。そしてそのことを改めて悟ってから、ああ、これから彼女のコラムを読めなくなるのだなという別の寂寥感が襲ってくるのである。

 それほどに、このナンシー関のテレビ批評コラムは、個々の読者の心をとらえては離さなかった。自宅に数台のビデオデッキを備え、テレビをウオッチし続けた、その労力もさることながら、連載誌一回一回水準の高いコラムを書き続ける神経の使い方も並大抵ではあるまい。それがおそらくは、身を削るように、心臓に負担をかけ、早すぎた「死」を迎えたのかもしれない。

 民俗学者の大月隆寛氏によれば、ナンシー関の死は「思想的な事件」といえるほどの損失だという。

 そのテレビ批評は、ワイドショーをはじめとする番組作りの在り方、芸能人やテレビ界の裏側を、一視聴者の立場から、分析し斬っていく。例えば、「ちょっと何様のつもり」のキャスターやうさん臭さの残るタレントなどが俎上(そじょう)に上げられると、胸のつかえが不思議と下りるのである。

 その本質を喝破(かっぱ)していく「眼力」もすごいが、それを表現する文体も並みではない、天才である。書店では彼女の追悼コーナーができ、書評誌もその中の一冊だ。

 ナンシー女史にあえて言う、「至福のコラムを、ありがとう」。

 (角川書店 本体五一四円)

椎木芳人



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