書評
navix
email
 

『亡命者 ジョウゼフ・コンラッドの世界』を読む

吉岡栄一

二律背反的な心情に焦点

 この二月、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(一九七九)のノーカット「特別完全版」が公開されたが、この映画の原案となったのが、ジョウゼフ・コンラッドの傑作中編小説「闇の奧」であった。

 ジョウゼフ・コンラッド(一八五七−一九二四)といえば、ポーランドからイギリスに帰化し、英語で小説を書き始めた世界的な作家として知られている。ほぼ十九年におよんだ長年の船乗り生活から、日本ではかつては「海洋作家」というイメージの強い作家であったが、現在ではコンラッドの本領はそこになく、むしろ「政治作家」としての面が強調されるようになってきた。むろん、『ナーシサス号の黒人』や『日脚』などの「海洋小説」の傑作もあるが、コンラッドの文学世界の真髄は「闇の奧」、『ロード・ジム』、『ノストローモ』、『スパイ』、『西欧人の眼の下で』などの「植民地小説」や「政治小説」にあるというのが定説になっている。

 ところで、コンラッドの生涯は三つの時期に分かれている。「ポーランド時代」「船乗り時代」「作家時代」である。このような特異な経歴を反映して、コンラッドには「二重人間」、「祖国離脱者」、「文化的越境者」という側面も否定できない。

 本書は、かかるコンラッドの内面意識を二つの祖国、ポーランドとイギリスに引き裂かれた状態とみなし、大英帝国の「異人」ないしは「アウトサイダー」という視座から、コンラッドの分裂した二律背反的な心情に焦点をあてて、十編の中・短編を縦横に論じている。このために、本書は、コンラッドの中・短編の作品世界を「植民地小説」、「海・船乗りの世界」、「夫婦関係の破綻」、「人肉嗜食」、「祖国愛」、「革命・政治」、「二重人間」というテーマに分類している。

 例えば、「植民地小説」として、「潟」「カレイン」「進歩の前哨基地」「闇の奧」が論じられている。ここでは、ヴィクトリア朝イギリス社会の周辺ないし外側に、いわば排除されていたはずの亡命ポーランド人たるコンラッドが、同時代の大英帝国の国家イデオロギーの拘束から、完全に自由であったかどうか、エドワード・サイードのポストコロニアル的状況をとりこんで丹念に論じている。

 とりわけ「冥府への下降と黒人描写」と題する「闇の奧」論は、圧巻である。この作品自体、コンラッドの傑作中の傑作といわれるだけあって、すでにイギリスでは、いわば世界中のコンラッド学者を集結した「闇の奧」論のアンソロジーが出版されているが、これら先達の諸研究=諸解釈を十分に咀嚼(そしゃく)し、独自の見解を提示している。

法政大学教授・川成 洋



HOMEBACK