ねじれ国会解消 粛々とした議事の進行を


 国会は言論の府だ。ケンカ場ではない。しかし、現実は日本一のケンカ場になっている。あの本会議場のデザインの厳(いか)めしさ。議場には四百人を超す与野党議員がひしめき、一段高いひな壇には総理大臣をはじめとして各閣僚がキラ星のごとく顔を揃(そろ)えている。ここで丁々発止と議論を展開する。とてもケンカをする場所とは縁遠い。

 しかし、この荘重な議場がしばしばケンカの修羅場となる。これは明治以来の伝統になっている。翌日の新聞には各紙ともに一面からデカデカと取り上げる。ケンカをする側からいえば、こんな名誉なことはない。みんな鼻高々だ。

 確かに、見ている側からすればこんな面白い政治ショーはない。日頃謹厳な与野党議員が緋の絨毯(じゅうたん)の上で取っ組み合いを演じているのだ。「待っていました」と大向こうから声がかかるのも無理はない。しかし、この傾向は必ずしも歓迎してはならない。神聖であるべき議場が乱闘場と化し、名誉と伝統がある日本の民主政治が泥にまみれたのだ。日本政治の足をどの位引っ張ったものか分からない。

 本来、日本人は無用の腕力沙汰は好きではない。終戦直後の自社対立時代は、徹夜国会と本会議場や委員会での与野党の腕を捲(まく)ってのドタバタ騒ぎは、永田町の名物といわれたものだが、いま思い出しても冷や汗が出る。

 自社対立の終幕とともに、国会混乱が自然鎮火していったのは当たり前だ。国会が法案を慎重審議するのは、民主政治の基本的な使命だ。だれも文句をいう必要はない。しかし、時々マスコミの悪い癖が出そうなのでヒヤヒヤすることがある。

 たとえば、無事平穏の法案審議が続くと、必ずといっていいほど低調国会論が飛び出す。低調と勤勉を取り違えている。国会が静かに法案審議に終始するのは、確かに傍から見ると退屈だ。しかし、退屈だからといって一波乱を望むのも行き過ぎだ。

 どうも国民と国会の間には大きな溝がある。国会の中でも特に参院の旧態依然振りが目立つ。先の国政選挙で国会のねじれ現象が解消した。これからは正しい多数原則で着々かつ粛々と議事を進めてもらいたいものだ。

 しかし、その参院から自己改革の声が一向に聞こえてこないのはいかなる次第か。二院制なのにどうも衆参両院の呼吸が合わない。衆参両院ピッタリ呼吸が合ってこその二院制だ。出遅れの気味があるが、ここらで衆参両院足並み揃えて、遅れを取り戻してほしい。

(I)