板橋の田遊び


建国記念の日 特集

民俗宗教史家 菅田正昭氏に聞く

子孫繁栄と豊穣を祈願した予祝行事
縄文起源の「花籠」

 きょうは建国記念の日。日本の文化の基層には稲作があり、稲作にまつわる神事は古代から伝えられ、伝統が息づいています。東京都板橋区の赤塚諏訪神社に伝わる「田遊び」は、五穀豊穣(ほうじょう)、子孫繁栄を祈願した予祝行事で、国の重要無形民俗文化財。この神事について民俗宗教史家の菅田正昭氏に聞きました。
(聞き手、写真=増子耕一)

国全体の繁栄を願う
国指定の無形民俗文化財

「田遊び」は、イネの種まき前の作業から収穫に至るまで、稲作の過程を儀式化した神事芸能ですが、一連の行事には性格の異なった幾つかの場面が含まれています。

菅田正昭氏

 すがた・まさあき 1945年東京生まれ。学習院大学卒業。宗教学・民俗学・離島問題の研究家。著書『古神道は甦る』『青ヶ島の神々』ほか。

 最終的には新穀を共食する秋の収穫祭として、その精神は宮中や一般の神社で行われている新嘗祭(にいなめさい)、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)、さらに天皇陛下の一世一度の大嘗祭(だいじょうさい)までつながっています。

赤塚諏訪神社の祭りを見ますと、夜になり、いつ始まったのか、よく分かりません。

 何となく夜7時ごろ始まりますが、境内で待っていると、祭りが始まっているようにも思われない。しかし、社務所の中には宮座に属する演者たちがいて、歌い合わせや、御神酒が振る舞われ、神事としての準備が行われています。宮座というのは神社に付属する芸能集団のことで、元はといえば、能や狂言などの申楽(猿楽)も宮座から発生したものです。

 始まっているのか、いないのか、分からないけど、始まっている。しばらくして神輿(みこし)の渡御があり、御旅所の浅間神社へ行きます。ここは小さな神社ですが、富士講の小富士があります。そこで夜、変わった行事が行われます。その部分が古いもので、私は縄文起源ではないかと思っています。男根を想起させる長い竹の棒の先に竹で編んだ花籠があり、花の飾りがついている。稲穂の象徴と見ることもできますが、恐らく稲作以前の、ヒエ、アワ、キビなど穀類や豆類の豊穣を意味している縄文信仰の古層の現れでしょう。

何をしているのですか。

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花飾りのある花籠(左)に破魔矢が突進してくる

 花籠に向かって大きな破魔矢が突進し、子供が乗った駒をゆする。このとき花籠から紙片が舞い落ちる。これが受胎と出産、子孫繁栄を意味しているようです。実は、田遊び全体が子孫繁栄と豊穣を祈ったものですが、天狗(てんぐ)がうなりを上げ、周囲から「イヨイヨ」とか「イオイオ」の掛け声が聞こえてくる。「イヨイヨ」は陰陽から来たといわれ、陰陽師が唱える呪詞が簡略化されたものと考えられています。この場面に登場する獅子舞の獅子も胴体がひじょうに長いのが特色です。

 板橋の田遊びは、赤塚諏訪神社と徳丸北野神社の二カ所が国指定の無形民俗文化財ですが、この系統を遡(さかのぼ)っていくと伊豆の三島大社に行き着くようです。そこから板橋へ伝播(でんぱ)したようです。その途中として、横浜市の鶴見神社では「田遊び」(昨年11月、市の無形民俗文化財に指定)の名称で、現在は4月29日に行われています。

 赤塚の地名はもと荒墓といわれ、アラハバキに音韻が似ている。さいたま市の氷川神社の摂社に門客人神社があり、現在は須佐之男命と結婚した稲田姫命の両親のアシナヅチ、テナヅチが祀(まつ)られています。古くは荒波々幾(アラハバキ)社と呼ばれていました。アラハバキ神は正体不明の、しかし縄文時代からの神といわれています。

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社務所の中で演じられる宮座

 記紀神話では、ニニギノミコトの天降(あも)りのとき、イネを持ってくる。否、稲種だけではなく、五穀も持ってきたのです。コメ、ムギ、マメ、キビ、アワ、ヒエだけでなく、カイコも入っている。田遊びには農業全体の生産がうまくいくようにという祈りが込められています。

徳丸北野神社では2月11日に、赤塚諏訪神社では2月13日に行われています。

 田遊びは旧正月の小正月のころに行われます。小正月というのは旧正月の15日前後のことで、もちろん満月です。旧正月の10日ごろから16日ごろまで、全国で集中的に小正月行事が繰り広げられます。本来、徳丸北野神社では旧暦1月11日、赤塚諏訪神社では1月13日、鶴見神社では1月16日でした。時期的には立春を過ぎています。その頃が一年で一番寒いわけで、この時、一年の豊穣を祈る。冬は冬籠(ご)もりの略で、冬の語源は増(ふ)ゆと言われています。稲種が一粒万倍を夢見て冬籠もりをして、じっとして「張る」(ハル=春)のを待っているわけです。立春正月が旧正月で、本来東アジアでは、中国でも韓国でもそうなのですが、日本だけが明治以降、冬至系に変わってしまいました。もちろん、そうなる文化・信仰の基層もあったのでしょう。

田遊びは季節感のある行事で、神輿の渡御に先立って、子供たちが竹で大地をたたく「ササラ役」があります。

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「太郎次」(奥)と「やすめ」が舞を舞う

 地面は凍っていて、霜柱の立っている所もある。その大地を竹の棒で叩(たた)いて、魂振りといって、元気になってくれよ、と土地の霊に力を与えているのです。特に子供が叩くことでパワーを土地に伝える。その下にいるカエルや虫たちにも、春だ、起きろ、という意味もあります。

繰り返しになりますが、花籠はヘビだという説もあります。

 ヘビは脱皮するので不死の象徴でもあります。縄文土器にもヘビが登場する。その意味では縄文起源と言えるかもしれません。忌部系の古書『古語拾遺』には「古語(ふること)に、大蛇(をろち)を羽々(はは)と謂ふ」と出てきます。すなわち、ヘビとハハの中間形態が沖縄・奄美のハブということになります。もちろん、ハハは母でもあるから、母は子を産む。ヘビに生命の神秘を見ているわけです。

最後の方に登場する田遊びですが、演じているのを見ると、江戸時代の雰囲気があります。台詞の言葉も稲作のプロセスも、現代に近い。

 そうです。ちょっと分からないところもありますが、だいたい意味が理解できます。田楽や猿楽系の狂言もそうですが、言葉は室町時代以降だから分かりやすいのです。

 その詞章の中に、「東の町に一萬町、南の町に一萬町、西の町に一萬町、北の町に一萬町、中の町に一萬町」とか「千町萬町」というのがあります。自分たちのところだけではなく、周辺の全部が見えるという意味で、地域の繁栄を願うだけではなく、国全体の繁栄を願っている。

演技を伝承しているわけですね。

 板橋区の赤塚地域には田がなくなってしまいましたが、氏子が残って伝承しています。忙しくて台詞を覚えきれず、台本を見ながらやっている人もいる。半分近くの人々は数代遡れば、明治時代から住んでいる人たちです。

 私も、赤塚諏訪神社の田遊びを、最低7回は見ています。一人で来たこともあるし、人を誘ってきたこともある。特に花籠の神事を見るためです。

祭りの最後は、「太郎次」と「やすめ」の夫婦が出てきて舞を舞い、抱き合います。

 この部分は他の神社でも同じように演じられます。赤塚諏訪神社の場合、さらに「よねぼ」というイネの赤ちゃんが出てきます。養蚕地帯では小正月に繭玉の団子をつけた枝が飾られますが、これを「あわぼ」といいます。赤塚諏訪神社では「よねぼ」ですが、これも稲玉が出てきて生まれることを表しています。祝詞の慣用句だと「子孫(うみのこ)の弥続き」とありますが、「よねぼ」には子孫が代々繁栄し、長く続くようにという意味も含まれています。

 さらには左義長(どんと)もあり、三つぐらい内容の行事が一つになっていて、きわめて珍しいのです。火を焚(た)くので地元の消防団と消防自動車も来ています。地域全体のお祭りなのです。

参加した人たちに聞いてみると、熱心なファンがいて、毎年、来るのを楽しみにしていると話してくれました。

 以前は観客よりも演じている人の方が多かったのですが、今は観客の方が増えています。観客も祭りを演じる人たちの一部なのです。

解説、ありがとうございました。