原爆の日、核抑止力の重要性を考えたい


 広島はきょう、長崎は9日に69回目の「原爆の日」を迎える。犠牲者に深く静かに鎮魂の祈りを捧(ささ)げるとともに、二度と同様な惨禍を招かないよう誓いを新たにしたい。

 核なき世界は平和か

 唯一の被爆国として、その記憶を風化させることがあってはならない。絶えず原爆の悲惨さを全世界の人々に訴え続けることが必要だ。だが同時に核兵器の問題について忘れてならないのは、感傷に流されることなく、その功罪を考えるという冷厳な姿勢である。

 第一の問題は、核なき世界が果たして平和かどうかだ。戦争の原因としては民族、宗教、政治、経済、イデオロギーなどに関する対立が挙げられる。核兵器をなくせば確かに核戦争は起こり得ない。

 しかし戦争の原因が存在する限り、人々はあらゆる手段を動員して戦うに違いない。そしてその場合、人口が多く強力な地上兵力を持つ国家が圧倒的に有利となり、核による報復攻撃を恐れることなく開戦に踏み切れるようになろう。

 次に核兵器を全て“悪”と断じることができるかどうかが問題だ。同じ拳銃でも強盗が持てば恐るべき武器となるが、警官が持てば市民を守るものとなる。悪いのは核兵器そのものではなく、誰がどのような意図で保有しているかが問われなければならない。

 中国や北朝鮮の核兵器は、その国柄から考えて、日本にとっての脅威だ。これに対して日米安保条約でわが国の防衛を約束している米国の核兵器は、対日核攻撃を抑止するものとなっている。米国による報復核攻撃を受けるという恐怖心を生じさせるためだ。

 それにもかかわらず、一律に核兵器廃絶を唱えるのは思考停止の抽象論と言われても仕方があるまい。その意味で、わが国が米国の「核の傘」によって守られていながら、国連などで核廃絶を主張するのは矛盾していると言える。

 ドイツの哲学者フォン・ワイツゼッカー博士は「核兵器を含む軍備競争は国際緊張の原因ではなく結果である。同様に核を含む軍縮は平和の結果として実現するものであり原因とはならない」と述べた。

 さらに、一度開発された核兵器の製造技術をなくすことは不可能だ。たとえ核廃絶ができたとしても、戦争の原因がある限り、いつでも核開発競争が起こり得るだろう。

 中国と北朝鮮の核の脅威にさらされているわが国は、実現の可能性が低い核廃絶よりも、核抑止力を重視すべきだ。その点で、まずは広島、長崎の被爆体験による核兵器への拒絶反応をなくすことが肝要である。わが国では核アレルギーが先行して「核の傘」の重要性への認識が乏しいのは残念だ。

 流出防止が緊急の課題

 核兵器の問題で最も危惧されるのは、中国や北朝鮮、イランからの中東やアフリカのテロリスト集団への流出だ。

 こうした集団には、核による抑止効果は及ばない。国連を中心に世界が緊急に取り組むべきは、この問題であることを忘れてはならない。

(8月6日付社説)