熊本地震への対応と訪米


沖縄発のコラム:美ら風(ちゅらかじ)

 熊本県や大分県など九州地方を襲った地震を受けて沖縄県は先月18日、支援対策本部を設置。平成7年に締結された九州・山口9県災害時応援協定に基づき、県職員16人を熊本県庁と熊本県宇土市に派遣した。続く25日には、公営住宅の無償提供を始めた。

 県が本格的に動いたのは、震災発生から5日後のことだ。震度7を記録した最初の大地震が発生したのは14日。国土交通省はその日の夜に非常災害対策本部を設置している。

 地震発生翌日、沖縄からは災害派遣精神医療チーム(DPAT)の4人、16日には災害派遣医療チーム(DMAT)25人が現地入り。さらに、那覇市消防本部の26人が被災地へ向かった。

 米軍もすぐに、政府の要請に応えるかたちで、17日には海兵隊の主力輸送機オスプレイを投入した。

 沖縄にとって熊本は特別な県である。第2次世界大戦末期、沖縄県の学童は熊本、宮崎、大分の3県に疎開した。宮崎県には32校2643人、熊本県には28校2602人、大分県には7校341人が戦禍を逃れた。

 2005年10月には、当時の稲嶺恵一知事が戦後60周年の機会に、疎開関係者交流事業を開催。九州などで疎開当時にお世話になった関係者を招いて感謝の意を表した。

 大きな恩恵を受け、現在でも多くの県出身者が生活している九州・熊本に真っ先に支援の手を差し伸べようとする姿勢が今の県政には見えない。

 翁長氏は、声明を発表することも被災地を慰問することもなく、今月9日、米国へ向け出発、18日まで滞在。14日からは首都ワシントンに入り、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古沖への移設阻止を訴える。(T)