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朝日新聞の慰安婦大虚報、取り消した記事15本の要約


朝日新聞虚報の“ツケ”(資料集)

 朝日新聞は8月5日検証特集で、韓国・済州島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽と判断し、吉田氏証言に依拠した慰安婦記事16本を取り消した。17日までに特定した15本(朝日公表の12本を含む)の説明と記事要約・要旨などは次の通り。

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朝日新聞東京本社(東京・中央区築地)

 「朝鮮の女性 私も連行/元動員指揮者が証言」

 朝日新聞は、済州島(韓国)で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽として証言に依拠した記事16本を取り消した。その初報。

 かつて朝鮮人の強制連行の指揮に当たった動員部長が1日夜、大阪で催された『旧日本軍の侵略を考える市民集会』で、悲惨な『従軍慰安婦狩り』の実態を証言した。重い口を開く姿に、約500人の参加者はしんとして聴き入った。

 この人は東京都文京区千石4丁目、吉田清治さん(68)。昭和17年秋、朝鮮人の徴用を目的に発足した『山口県労務報国会下関支部』の動員部長に就任した。以後、3年間、十数回にわたり朝鮮半島に行った。直接指揮して日本に強制連行した朝鮮人は約6千人、うち950人が従軍慰安婦だったという。

 そして、18年の初夏の1週間に済州島で200人の若い朝鮮人女性を「狩り出した」時の状況が再現された。朝鮮人男性の抵抗に備えるため完全武装の日本兵10人が同行した。

 吉田さんに37年間の沈黙を破らせたのは、歴史の逆流傾向に対する危機感だという。

  ②昭和58(1983)年10月19日夕刊

 「韓国の丘に謝罪の碑/東京の吉田さん/『徴用の鬼』いま建立」

 ④の吉田清治氏の活動の予告記事。

 12月初め、韓国中西部の「望郷の丘」(忠清南道天安市近く)で、ひとつの石碑が除幕される。太平洋戦争中、6千人の朝鮮人を日本に強制連行し、『徴用の鬼』と呼ばれた元山口県労務報国会動員部長、吉田清治さん(70)=東京都品川区上大崎2丁目=が建立する。吉田さんは昭和17年夏、郷里の山口県労務報国会下関支部の動員部長、後に県全体の動員部長になった。昭和18年ごろからは吉田さんらが直接、朝鮮に出向いた。軍や警察の協力を得て、結婚式場にまで踏み込み、若者たちを木刀や銃剣で手当たり次第に駆り立てた。徴用した6千人のうち、約3分の1は病気などで祖国解放を見ずに死んだ、という。

 敗戦直後に旧内務次官から、朝鮮人徴用に関する公式書類の焼却命令が出て、吉田さんも関係書類をすべて処分した。その後、せめてわずかな記録と自分たちの記憶だけでも残そうと、強制連行の過去を暴いた本を2冊出版。次に韓国への謝罪の旅と、「日本人の謝罪碑」建立を考えるようになった。

  ③昭和58(1983)年11月10日朝刊 人物紹介コラム「ひと」

 「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる/吉田清治さん」

 全国から励ましの手紙や電話が相次いでいる。「でもね、美談なんかではないんです。2人の息子が成人し、自分も社会の一線を退いた。もうそんなにダメージはないだろう、みたいなものを見定めて公表に踏み切ったんです」

 大学卒業後、旧満州国吏員から転じた中華航空で、朝鮮人の社会主義者を飛行機に乗せる結果になったことなどが利敵行為に問われる。軍法会議で懲役2年。出獄後、特高警察から「罪のつぐないに、労務報国会で働け」と迫られた。

 下関は正規の徴用はもちろん、ブローカーにだまされた若者たちが次々に送り込まれてくる。内務省からは「人員払底の時局から、取り締まるな」の密命。貨車で炭鉱や土木現場に送り込んだ。「国家による人狩り、としかいいようのない徴用が、わずか三十数年で、歴史のヤミに葬られようとしている。戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」。著書に「私の戦争犯罪」(三一書房)など。70歳。

  ④昭和58(1983)年12月24日朝刊

 「たった一人の謝罪/強制連行の吉田さん/韓国で『碑』除幕式」

 【ソウル23日】の特派員記事。②の吉田清治氏の活動予告記事に対する報告記事。吉田氏の土下座謝罪の写真を掲載。

 第二次大戦中に起きた韓国・朝鮮人強制連行の全容は依然解明されていないが、当時山口県労務報国会動員部長として、その一端にかかわった体験を本に書いた吉田清治さんがその印税を投じて建てた「謝罪の碑」が韓国・天安市にでき、23日除幕式が行われた。式に出席した韓国人関係者は吉田さん個人の志は理解しながらも、責任を回避し続けている日本政府の姿勢に対するやり場のない怒りをぶつけた。

 「私は戦前数多くのあなた方を強制連行した張本人です。一人だけのおわびですが、自責の念で死ぬに死ねない気持ちでやってまいりました」。祈りのあと、吉田さんは一語一語かみしめ、建立の趣旨を話した。

 別項の「メモ」。「女子てい身隊」名目で前線に送られた慰安婦は5~7万人にのぼるといわれる。

  ⑤昭和61(1986)年7月9日朝刊第2社会面

 「アジアの戦争犠牲者を追悼/8月15日、タイと大阪で集会」

 終戦記念日の8月15日に、第二次大戦で犠牲となったアジアの人たちを追悼する集会がタイと大阪で同時に開かれるという予告記事。

 集まりは「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む集会」。

 大阪集会はシンガポールの新聞の東京特派員、タイの戦争博物館館長らが日本軍の侵略行為と被害者の感情を証言する。日本側からは、戦争中「山口県労務報国会下関支部」動員部長として、従軍慰安婦を含む朝鮮人の強制連行の指揮に当たった吉田清治さん(72)=千葉県我孫子市=が体験を話す。

 今回の催しは昨秋、大学講師が、朝日新聞紙上で「アジアの戦没者遺族を招き、合同慰霊祭を」と呼びかけたのがきっかけ。参院議員ら31人が呼びかけ人になった。

 ⑥平成2(1990)年6月19日朝刊(大阪本社版)

 「名簿を私は焼いた/知事の命令で証拠隠滅/元動員部長証言」

 戦前、山口県労務報国会下関支部動員部長として、多数の朝鮮人を「徴用」名目で強制連行した、として吉田清治さんの発言を証言として紹介した記事。

 内務次官の指示に基づき、「記念写真を含め、朝鮮人に関する資料をすべて焼却せよ」という県知事の緊急命令書が警察署長あてに届いた。「名簿などの関係書類をドラム缶で焼き、灰はスコップで海に捨てました」。敗戦直後の8月下旬のことだった、という。

 「強制連行の実態が明らかになると、関係者は戦犯になりかねない。だから米軍が来る前に、証拠隠滅を図ったわけです」

 吉田さんは敗戦まで約3年間、強制連行の実務責任者として7、8回、朝鮮半島に渡った。地元警察署員らが集落を包囲したあと、吉田さんが家の中や畑で作業中の朝鮮人男性を強引に引きずり出し、次々と護送車に乗せた。「同じやり方で多くの朝鮮人女性を従軍慰安婦として連れ去ったこともあります」。

 ⑦平成3(1991)年5月22日朝刊(大阪本社版)語り合うページ面

 「女たちの太平洋戦争/従軍慰安婦/木剣ふるい無理やり動員」

 「女たちの太平洋戦争」という企画ものの中で、加害者側の証言をした吉田清治氏に関する記事の大半は、外部団体編集の出版物(吉田氏の講演=86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む集会」で)から吉田氏の講演大要としてまとめている。

 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の一つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上ではないそうです。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。

 従軍慰安婦と原爆被災者の二つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。

  ⑧平成3(1991)年10月10日朝刊(大阪本社版)語り合うページ面

 「女たちの太平洋戦争/従軍慰安婦/加害者側から再び証言/乳飲み子から母引き裂いた」

 「女たちの太平洋戦争」という企画ものの中で、加害者側の証言者としての吉田清治氏のインタビュー記事。小囲みもので「考える集い・催し次々と/岡山・大阪――各地で広がる関心」の関連記事とセットで掲載。

 「朝鮮人従軍慰安婦とは何だったのか。いまこそ明らかにし謝罪しておかないと日本は早晩、国際的に指弾されるだろう」。戦時中、朝鮮人を強制連行した吉田清治さんはこう言って目を伏せた。吉田さんは5月22日の本欄で、加害者としての自分について証言したが、改めて胸中を吐露した。

 私が連行に関与したのは千人ぐらいですが、多くが人妻だったのではないでしょうか。乳飲み子を抱いた人もいた。三、四歳の子供が若い母親に泣きながらしがみついてもいました。そんな子供たちを近くにいる年とった女性に渡し、若い母親の手をねじ上げ、けったり殴ったりして護送車に乗せるのです。

 当時、子供だった人たち同様、私もあの現場だけは忘れることができません。

  ⑨平成4(1992)年1月23日朝刊オピニオン面

 [論壇]「従軍慰安婦への責任と罪」

 映画監督の寄稿。本紙が16本の取り消し記事の一つと特定。(朝日新聞10日朝刊が12本の取り消し記事を公表した際、公表を見合わせた4本のうちの「論壇」への寄稿1本に該当)。

 77年からこの朝鮮人従軍慰安婦の問題を、取材している筆者は、まだ明らかにすべき二つの問題が残っていると思う。その第一は、朝鮮人従軍慰安婦は単に過去の戦争責任だけの問題ではなく、日本人にとって現在の問題。

 第二は、従来の朝鮮人従軍慰安婦は未婚女性がほとんどだといわれていたが、実際は既婚者、子持ちの女性が意外に多かった事実である。よけいに罪が重い。このことは吉田清治さんが証言している。「三、四歳の子供が若い母親に泣きながらしがみついてもいました。そんな子供たちを近くにいる年とった女性に渡し、若い母親の手をねじ上げ、けったり殴ったりして護送車に乗せるのです」(91年10月10日、朝日新聞大阪版)。

 近代国家で、公営の売春婦を抱えて戦争したのは日本だけである。

  ⑩平成4(1992)年1月23日夕刊第1面コラム

 [窓 論説委員室から]「従軍慰安婦」

 吉田清治氏のそれまでの証言などがコラムニストの地の文となり、それにインタビューを巧みに織り交ぜ、氏を正義の士像で描く。

 記憶のなかで、特に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。吉田さんと部下、10人か15人が朝鮮半島に出張。100人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。吉田さんらが連行した女性は、少なくみても950人はいた。

 「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、1年2年と監禁し、集団強姦(ごうかん)し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」

 吉田さんは78歳である。

  ⑪平成4(1992)年3月3日夕刊第1面コラム

 [窓 論説委員室から]「歴史のために」

 コラムは朝日新聞の慰安婦「強制連行」告発キャンペーンがテレビとの深い連動で行われてきたことを裏付けている。1月23日の「窓」欄で吉田清治氏の告白を紹介したことや、91年に朝日放送とタイアップした年間企画「女たちの太平洋戦争」に寄せられた投書から担当者と話して気づいた、日本軍の残虐行為を否定する人などの論拠に共通する型があるとし、次の三つの型に分析。

 ①そんなことは見たことも聞いたこともない。軍律、兵隊の心情にてらしても、それはありえない。もし事実だとしても、それは例外で、一般化するのは不当。

 ②自虐的に自国の歴史を語るな。戦争が庶民を犠牲にすることは分かりきっている。過去を語っても無益。

 ③戦友は祖国のために命を捨てた。英霊を冒涜(ぼうとく)するな。

 以上のように主張したい人々の気持ちはよくわかるとした上で「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」と結ぶ。

  ⑫平成4(1992)年5月24日朝刊、第2社会面

 「慰安婦問題 今こそ 自ら謝りたい 連行の証言者、7月に訪韓」

 ⑬の予告記事。「私が慰安婦たちを強制連行した」と証言している吉田清治氏が7月から韓国に「謝罪の旅」に出ることを報じた。

 吉田さんは、慰安婦問題について韓国側から次々と起こされる訴訟、遅々として進まない日本側の補償にいてもたってもいられなくなった、という。高齢で、今年しかチャンスはないかも、という気持ちが、吉田さんを今回の旅に駆り立てた。元慰安婦たちとも対面する予定で、「残虐行為に直接かかわった日本人が謝罪に来た、という歴史を残したい」と話している。韓国内で慰安婦問題への関心が盛り上がっているいま、9年前以上の「さらし者」になる覚悟はできている、という。

 ⑬平成4(1992)年8月13日朝刊、第2社会面

 「元慰安婦に謝罪 ソウルで吉田さん」

 吉田氏が韓国で元慰安婦に謝罪した様子を報じたもので、⑫の報告記事。

 太平洋戦争当時、山口県労務報国会動員部長として、朝鮮人慰安婦や軍人、軍属を強制連行したと証言している吉田清治さん(78)=千葉県我孫子市柴崎台=が11日訪韓し、12日、ソウルの韓国プレスセンターで開かれた太平洋戦争犠牲者遺族会の「証言の会」に出席した。東京地裁に対日補償請求を訴えている元慰安婦の金学順さん(69)の前で頭を下げて謝罪。金さんは「補償実現に力をささげてほしい」と訴えた。(記事全文)

  ⑭平成6(1994)年1月25日朝刊、見開き大特集面

 政治動かした調査報道 戦後補償 忘れられた人達に光 慰安婦・強制連行…

 朝日新聞の数々の調査報道が政治を動かしてきた――として、その大きな成果例として慰安婦報道が高く評価されたことを紹介している。

 「戦後長い間、戦禍の責任をとるべき側から忘れられた人達(ひとたち)がいた。/旧日本軍の性の道具とされた従軍慰安婦、強制連行の被害者、海外の残留邦人……。/近年になって急浮上したこれらの戦後補償問題に、朝日新聞の通信網は精力的に取り組み、その実像を発掘してきた」と書くリード文に続く記事本文で、吉田清治氏を匿名で次のように紹介している。

 日本ジャーナリスト会議からJCJ賞を贈られた朝日新聞と朝日放送のメディアミックス企画「女たちの太平洋戦争」に、慰安婦問題が登場したのは、翌91年5月。朝鮮に渡って強制的に慰安婦を送り出した元動員部長の証言に、読者から驚きの電話が何十本も届いた。

  ⑮平成9(1997)年2月7日朝刊、オピニオン面

 「声」当事者の声になぜ耳閉ざす 大阪市(主婦 42歳)

 「従軍慰安婦」についての教科書の記述を、不正確で事実の裏付けがないなどと批判し、その記述を削除すべきだと主張する東大教授らの動きが活発だ。

 韓国などの慰安婦にされた人の話は、まったくでたらめだというのだろうか。テレビで元軍人が「私は少なくとも千人は徴用しました。女の徴用がどんなにいやな仕事だったか」と話すのを聞いたことがあるが、これも徴用であって慰安婦にしたのではないというのだろうか。

朝鮮人強制連行も虚偽

拓殖大学客員教授・藤岡信勝氏の話

400 朝日新聞は8月5日、吉田清治の証言を真実として報道・論評した16本の記事を取り消した。しかし、その16本がどの記事であるかを特定しなかった。自動車メーカーが、「わが社が販売した三つの車種のエンジン系統に欠陥が見つかった」と発表しつつ三つの車種を明らかにしない、というのと同じで、許されない。

 世界日報はその16本の記事を特定すべく調査した。その後、10月9日、朝日は12本の記事をやっと公表した。その結果重要な事実が判明した。世界日報が16本の中に入っているだろうと判断したのに、朝日の公表リストに載っていない記事があったのだ。それは、1982年10月1日付の記事で、吉田が「樺太裁判」と呼ばれる訴訟で、朝鮮半島から樺太へ朝鮮人を徴用で強制連行した下手人として証言台に立っていたのである。

 この記事を朝日が外したということは、慰安婦問題とは別件だから、というのがオモテ向きの理由になるのだろう。ところが、そうはいかない事情がある。慰安婦強制連行の方の最初の記事は82年9月2日付の大阪本社版だが、その中で吉田は、「直接指揮して日本に強制連行した朝鮮人は約6000人、うち950人が従軍慰安婦だった」と語っているのである。

 このように朝鮮人強制連行と慰安婦強制連行は同じものである。吉田の証言は慰安婦の部分は虚偽だが、朝鮮人強制連行については真実だとでも朝日は考えているのだろうか。今後の重大な争点である。

社内の「反日」の空気が作用

評論家(元TBS報道局長)・大藏雄之助氏の話

400-1 朝日新聞は8月5日に慰安婦問題について吉田清治の証言が虚偽であったことを最初の報道からすでに32年もたって公表し、10月9日になって、誤報として取り消した16本の記事のうち、外部の寄稿などを除く12本の見出しを明らかにしたが、慰安婦関係の誤報はそれ以外にも多数あるはずだ。

 吉田証言のでたらめは1977年にその最初の手記が出版された直後から問題にされていた。本人も出版社ものちにフィクションと認める代物だった。にもかかわらず朝日は5年後の82年9月2日に大阪本社版で、彼が慰安婦強制連行の指揮者であったという告白を取り上げた。

 彼は大正2年の生まれだから、法政大学を卒業したのが本当なら早くても昭和11年以降である。そこで順調に満州国の吏員を経て中華航空(?)の職員になったとしても、朝鮮人の社会主義者をうっかり飛行機に乗せた責任を問われて軍法会議で有罪とされるほどの地位にはないし、その後2年間刑務所に服役したのはいつからいつまでなのか。

 しかもそれで昭和17年に山口県労務報国会の動員部長に任命されるというのはあり得ない。

 こんなに簡単なことも調べずに記事を書いた記者も、それをすんなり通したデスクも常識では考えられない。やはり朝日社内の「反日」の空気が作用したのだろう。