9面 解説 2007/04/08 back

【ここが知りたい】試験のルーツ

中国の「科挙」は人材登用の試験

文学芸術を理解する教養人が衰退

 試験のシーズンが終わり、卒業式、そして入学式を終えている季節でしょう。大学入試を目指して長年苦労した学生も、これで試験から解放されると思ったらそれで終わるわけではなく、これからいい会社に入るための、あるいは高級官僚になるための司法試験や国家公務員上級試験などが控えています。

 試験とは、もともと人材登用のために設けられた面があります。中国では、古来から、特に唐の時代から人材登用のための試験「科挙」が設けられ、四書五経を基準とした試験がありました。これは従来の貴族や特権階級が政府の中枢を占めることを防ぐために、地方から優秀な人材を求め、官僚を育てることによって皇帝の権限を強化しようとした面があります。

 試験の科目は四書五経を基に詩文などの理解や作成の能力が問われました。いわば文学が主体だったので、中国の官僚は政治家と同時に詩人や作家でもありました。詩を作り、そして、政治を行う教養があるのが当たり前でした。

 その点が日本の官僚とはやや違っている点です。日本の大学は、西洋の近代文明を学ぶ機関として設置された東京帝国大学(現東大)をはじめ、富国強兵の一環として西洋の知識・技術を学び、国家の基礎を固める官僚や技術者の養成を旨としていました。

 そのために、優秀な官僚が輩出しましたが、そこから詩人や芸術家はほとんど出ていません。むしろ詩人や作家は、この体制から逸脱した“敗者”であり、アウトサイダーでした。多くの明治・大正を彩る文学者は大学から脱落した者が多く、夏目漱石や森鴎外のような官吏としても有能な文豪は例外だったと言えるでしょう。

 現在、少子化やその他の影響で試験をゆるやかにし、しかも、会社に入るためには役に立たない“文学”などを教える文学部の統廃合化が拍車を加え、人気のある学部を中心に学生集めをしています。

 大学の企業化ですが、これも明治時代の国家の有為な人材を登用するためのルーツに戻ったといえるかもしれません。ただ、文学芸術を理解することによる人格養成、教養という面の欠如は加速するでしょう。

 大学が社会人となるための人間の青少年期の人格を育成する場ではなく、モラトリアムの期間、会社に入社するための知識や技術取得の一種の通過点となりつつあるのは、やはり長い目でみれば、国家の衰退を招き、社会の倫理を崩壊させる危機であると言えるかもしれません。(羽田幸男)

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