平成の皇室「国民と共に」 皇室の70年(下)


戦後70年

床に膝つかれ、被災者と対話

戦後の節目に「慰霊の旅」

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天皇、皇后両陛下は日本政府の「西太平洋戦没者の碑」に花を供えた後、約10キロ先の激戦地アンガウル島に向かって黙礼された=4月9日、パラオ・ペリリュー島(時事)

 1989年(平成元年)1月、象徴天皇制の下で初めて即位された天皇陛下は、国民と共に歩む皇室を皇后陛下と築き上げられた。避難所の床に座って被災者と同じ目線で話し、太平洋戦争の激戦地で静かに黙とうされる両陛下の姿は、その象徴とも言える。

 ◇災害のさなか現地へ

 91年6月3日、長崎県の雲仙・普賢岳で大火砕流が発生し、43人が犠牲となった。両陛下は7月10日、一般客も乗った定期便で長崎空港到着後、自衛隊ヘリで島原市に入られた。天皇が災害のさなかに被災地を訪れるのは戦後初めてだった。

 ホテルで両陛下は、消防団員らの遺族一人一人に「大変だったですね」などと語り掛けられた。遺族の女性が幼い子供を抱いており、当時の島原市長、鐘ケ江管一さん(84)がふと見ると、皇后陛下は目に涙をためられていた。

 両陛下の希望で、懇談場所は5階特別室から1階の部屋に、昼食はカレーライスになったが、両陛下はほとんど手を付けずに質問を続けられた。その後、陛下は腕まくりのワイシャツ姿で、皇后陛下と仮設住宅を見舞った後、市立総合体育館の床に膝をつき、住民一人一人に声を掛けられた。

 「床にお座りになったのでびっくりしたが、国民と共にというお気持ちの表れと思った。悲観ばかりしていたが、両陛下のおかげで生きる希望が湧いた」。鐘ケ江さんは今も感謝している。

 ◇悲しみ、苦しみ分かち合い

 2011年3月11日の東日本大震災は、戦後最悪の自然災害となった。両陛下は4月27日、自衛隊機とヘリで宮城県南三陸町に入り、津波でがれきの山となった市街地に静かに黙礼された。

 避難所の中学校体育館で皇后陛下は、町長の佐藤仁さん(63)がスリッパを履いていないのに気付くとすぐスリッパを脱ぎ、冷たい床に膝をついた。陛下も脱ごうとされたため、佐藤さんは慌てて止めた。陛下は床に膝をつき、行方不明の3歳の女児を捜す家族に「早く見つかるといいですね」と声を掛けられた。「町は水産で必ず復活します」。佐藤さんは両陛下の前で泣いた。

 佐藤さんは14年4月の園遊会に招かれ、陛下から「随分苦労されたんでしょうね」といたわられた。「おかげさまで、昨年の市場の水揚げが震災前と同じ量と金額になりました」と報告すると、両陛下は喜びの声を上げられ、佐藤さんは「一番厳しいときにお越しいただき、町民が勇気と元気をもらいました」と謝意を伝えた。

 宮内庁長官として同行した羽毛田信吾さん(73)は「人々の悲しみ苦しみをわがこととして受け止め、全身全霊を傾けお務めになった。象徴の地位と活動は一体のものとはっきりおっしゃった陛下の、そのありようを見た思いがした」と語る。

 ◇焼け野原が原体験

 戦後70年の今年4月、両陛下はパラオを御訪問。激戦地ペリリュー島で、日本政府の慰霊碑に続き、約10㌔先のアンガウル島に向かって深々と頭を下げられた。遺族らはその姿を万感の思いで見守った。

 「戦友に代わって御礼申し上げます」。アンガウル戦で生き残り、玉砕した約1200人の仲間の名簿を持ち、両陛下と対面した倉田洋二さん(88)は「いつ来てくれるのかと思っていた。この日をずっと願っていた」と声を絞り出した。

 歴史の風化を懸念する両陛下の意向で、戦後の節目ごと行われてきた「慰霊の旅」。侍従長を07年まで10年半務めた渡辺允さん(79)は「戦没者慰霊は両陛下にとって生涯を懸けた務めだ」と語る。

 陛下の幼なじみで同級生の明石元紹さん(81)は戦時中、沼津や日光で陛下と集団疎開生活を共にした。45年11月、陛下と同じ列車で原宿の皇室専用ホームに降り立ち、一面の焼け野原を見た。「建物が全くなく、どこまでも見渡せた。本当にやられてしまったなと実感した」と回顧する。

 渡辺さんは「陛下にとって大変な衝撃で、原体験として記憶の底にずっと残っておられると思う」と話した。

 明石さんは時代が平成に代わる直前の88年大みそかの夜、同級生らと3人で当時のお住まいの東宮御所に招かれた。昭和天皇の病状は深刻だったが、「(今の陛下は)結構お元気で、既に覚悟を決められていると感じた」と振り返る。

(時事)