「現人神」から「人間」へ 皇室の70年(上)


戦後70年

戦後巡幸で国民と向き合われる

昭和天皇 訪沖の御希望、病で幻に

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昭和天皇は全国巡幸の最初の訪問先、昭和電工川崎工場で、従業員に声を掛けられた=1946年2月19日、川崎市(昭和電工提供)

 太平洋戦争では、国内外で多くの尊い命が失われた。戦後、「人間宣言」をした昭和天皇は全国を巡幸し、人々と触れ合われた。晩年、国内最大の地上戦が行われた沖縄へ赴かれる機会が訪れたが、病に倒れ、幻に終わった。

 ◇国民慰め、励ます旅

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。1945年8月15日、「終戦の詔書」を読み上げる昭和天皇の肉声がラジオで放送された。1カ月後の9月27日、マッカーサーと初めて会見。二人が並んだ写真から、国民は敗戦を実感した。

 昭和天皇は翌46年元旦の詔書で自ら神格性を否定。翌月の神奈川県から巡幸が始まった。2月19日の昭和電工川崎工場。空襲の傷痕が至る所に残る中、整列して出迎えた従業員に「何年ぐらいいるか」「住宅等に不便はないか」と尋ね、従業員の答えに「ああ、そう」と話された。初めての一般庶民との対話だった。

 同年2月8日に家族とともにパラオから横須賀市の浦賀に到着した野村武さん(88)=札幌市=は、鴨居援護所にいた。昭和天皇が20日、同施設を訪問された。体の大きな駐留米軍人らに囲まれ、背広を着た昭和天皇から「遠いところ大変でしたね」と声を掛けられた。

 「神様みたいな存在で、威厳に満ちていると思っていたが、そうではなく、いっぺんに親しみを感じた」と振り返る。

 ◇「人間」が見せた涙

 巡幸は関東から始まり、48年の中断を経て、49年の九州巡幸では5月22日、戦災孤児が暮らす佐賀県基山町の因通寺を訪ねられた。

 昭和天皇は、戦死した父と、引き揚げ途中で亡くなった母の位牌(いはい)を胸に抱いた女の子に「お寂しい」と尋ねられた。「私は仏の子供です。浄土で両親ともう一度会えるから寂しくない」と話す女の子の頭をなで、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と話された。

 「その時天皇陛下のお目からはハタハタと涙がお眼鏡を通して畳の上に落ちていった」と当時の住職、調寛雅さん(故人)が著書に記している。

 全国巡幸は54年の北海道で幕を下ろした。昭和天皇は80年9月、宮内庁担当記者との会見で、「直接に国民を慰め、復興への努力を激励したいと思った。国民が復興に向け一生懸命働いている姿が印象に残っている」と語られている。

 ◇沖縄で幻の茶会

 最後に残った沖縄への御訪問は、87年10月、国体への臨席で実現するはずだった。当時、宮内庁総務課長として、昭和天皇の地方訪問を取り仕切った齊藤正治さん(78)は87年7月末~8月、事前調査のため、卜部亮吾事務主管侍従(故人)らと沖縄を訪れた。

 齊藤さんによると、訪沖の際には、戦没者追悼施設訪問などに加え、沖縄県民との「ミニ茶会」が内々に提案されていた。県民の各層から若い人も含めて招き、椅子に座って懇談するという企画で、「当時のご臨席行事では前例もなく、全く異例だった」と打ち明ける。

 しかし、昭和天皇は体調を崩し、9月22日、腸のバイパス手術を受けられ、訪沖は中止となった。術後間もなく、「駄目か」と漏らされたと、齊藤さんにも側近を通じ伝わってきた。

 「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」。昭和天皇は、当時の心情を歌に残された。齊藤さんが原案を作成した「お言葉」は、皇太子だった今の天皇陛下が沖縄で御代読。「お気持ちを十分お届けできたかと、後々まで心配した」と明かされる。

(時事)