友人との電話にも恐怖心


“拉致監禁”の連鎖(237)パート10
被害者の体験と目撃現場(23)
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新宿西教会から少し離れた場所にある新宿文化センター付近。舞さんはこの近くの公衆電話から友人と連絡を取った

 舞さんは、東京・歌舞伎町の新宿西教会が入るマンションの一室を借りて、監禁から解放された後の生活を始めた。

 水茎会や元信者らの集まりにはほとんど出席しなかった。マンションの2、3階が教会で、そこで行われる礼拝には参加した。

 礼拝で母親の姿を見かけることはあった。しかし、母親が階上の部屋まで訪ねてくることはもとより、会話を交わすことさえほとんどなかった。母親は拉致監禁されたことに心底憤っている舞さんの気持ちを感じ取っていたのか、舞さんと面と向かって話をすることができなかったようだ。

 解放後の生活をスタートして数日後、協会にいたときの友人である裕子さん(仮名)に電話をかけてみた。協会仲間という次元を超えて親しく交流していたため、いきなり2年以上も音信不通になって、ひどく心配しているだろう、という思いからだった。

 ただ、協会側の人間と連絡を取ることは、心理的なハードルが高く、思ったより何倍も勇気のいる行動だった。

 「脱会屋や家族に怪しいと思われたら、再び監禁されてしまうのではないだろうか」という恐怖心がどうしても付きまとった。すでに脱会した舞さんだったが、拉致監禁が残した爪あとは深く大きかった。

 新宿西教会周辺では誰かに見られる可能性があるため、教会から徒歩で10分ほど離れた新宿文化センター(東京・新宿6)の近くにある公衆電話から連絡した。

 「もしもし、美山です」。周囲を警戒しながら電話口で話しかけると、裕子さんは「えっ!」と驚き、絶句した。

 2年7カ月もの間、全く音沙汰もなかったのだから無理もない。裕子さんからすると、長期間にわたって行方知れずとなっていた親しい友人が、突然連絡してきた形になる。

 それでも、裕子さんは失踪の理由を理解していた。舞さんが拉致監禁されたのは2度目であり、協会の信者が突然、行方不明になるのは、ほぼすべてといっていいほど拉致監禁の被害に遭うケースだからだ。

 裕子さんに「大丈夫?」と言われ、舞さんは簡単に事情を説明した。

 その後は公衆電話や携帯電話で連絡を取り合うようになった。裕子さんは、舞さんが偽装でなく本当に協会を辞めたことを理解した上で、それでも以前と変わらぬ態度で話をしてくれた。協会に戻るように説得することも行事などへの参加を促すこともしなかった。

 舞さんとしては協会とは関係なしに、構えるところもなく自然と真摯に話を聞いてくれたことがありがたかった。

 舞さんは精神的に不安定だったこともあり、夜中に電話で6時間も話し込んだことがあった。話の内容は、ささいなことだった。昨日何をしたとか、雑誌にどういうことが載っていたかなどだったが、舞さんにとっては、大きな支えになったという。

 あるがままの自分を受け入れてくれた裕子さんと、変わらない友情関係を続けることができた。

(「宗教の自由」取材班)