強いられた婚姻無効裁判


“拉致監禁”の連鎖(235)パート10
被害者の体験と目撃現場(21)
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2011(平成23)年7月にバルセロナで開かれたICSA(国際カルト研究協会)で発言する紀藤正樹弁護士

 「リハビリ」中、宮村氏が舞さんの部屋に来て「祝福どうする?」と聞いてきた。入籍した韓国人の夫との関係をどうするのか、ということだった。離婚と婚姻無効訴訟を提起する方法の二つの選択肢があると言うので、舞さんは「離婚します」とだけ答えた。離婚の方が手続が簡単だと思ったからだ。

 ところが、宮村氏の女性スタッフがやってきて「本当にそれでいいの? もう少し考えた方がいい」と言い、その後も、同じことを何度も言ってきた。舞さんは「(合同結婚式による)婚姻は元々成立していない」という婚姻無効裁判を起こさない限り、宮村氏が「解放」の判を押さないのだと気付いた。意に反するが、舞さんは婚姻無効裁判を提起することにした。すべて宮村主導、彼の脱会達成の実績作りの一環だった。

 訴訟、裁判は、舞さんがあずかり知らない所で、宮村氏の知り合いの紀藤正樹弁護士に委任された。舞さんはその件で、東京・紀尾井町にある紀藤弁護士の事務所に計5回ほど出向いた。いつも両親が同行し、電車やバスなどの公共の交通機関は一切使わないで、タクシーを利用した。ほかに、新宿西教会に通うときも同様だった。

 紀藤弁護士は約束時間を守らず、舞さんは事務所で30分、1時間と待たされるのが常だった。しかも最初の時は「説得、終わられたんですよね」「じゃあ、婚姻無効もご自分の意志ですね」というような簡単な確認を行っただけ。その後は、紀藤弁護士が顔を見せても、舞さんに向かって「サインしてください」「これでいいですよね」の一言、二言だけ。訴訟内容を打ち合わせるというような手順とは程遠いものだった。

 婚姻無効の提訴に踏み切らざるを得ない女性の複雑な胸中を思いやることもなく、弁護士がさっさと事務処理を進めるだけというのは、まともな対応であるとは言えまい。婚姻無効裁判の文書、書類は、舞さんの頭越しに処理されていった。あまりに不躾な客あしらいというべきか。

 しかも、この後、紀藤弁護士によって裁判経過やその結果が直接、舞さんに伝えられることはなかったと言う。

 一方、同じ時期、舞さんは、父親が「ここからいつ出られるのかなあ」と問わず語りにつぶやくのを聞いた。すると、母親があわてて「そんなことは、宮村さんに任せておけばいいのよ」と、その話題を封印した。宮村氏の家族への縛りは、依然として及んでいたのだ。

 いったい、いつ解放されるのか。この件で、舞さんは弟に付き添われ、水茎会の事務所となっている西央マンションを訪ねたことがある。宮村氏は「婚姻裁判が終わるまでは、舞ちゃんが男性をいろいろ思い出したりして、(協会に)帰っちゃうこともなきにしもあらずだから、これが終わるまではあそこにいたら」と、まったく他人事のような返答だった。

 1998(平成10)年9月8日、舞さんはようやく荻窪フラワーホームの監禁から解放された。実に2年7カ月ぶりに自由の空気を吸った。北朝鮮など共産主義、独裁国家ではなく、人々が自由に行き来する東京での出来事である。

(「宗教の自由」取材班)