「作法」を踏まえた言説を


東洋学園大学教授 櫻田 淳

300-1 新聞、雑誌のような活字メディアを取り巻く環境は、特に近年ではネット・メディアの隆盛によって大きく変わりつつある。新聞、雑誌のような活字メディアは、何かを伝えるという趣旨の「速報性」や「鮮烈性」において、テレビやラジオのような電波メディア、さらにはネット・メディアから派生したツイッターやフェイスブックのようなソーシャル・メディアとは、大きな開きがある。現在、活字メディアの存在意義は、その「信頼性」にしかないのである。

 「朝日新聞」を直撃した不祥事は、そうした「信頼性」を根底から揺るがせるものであった故に、その意味を深刻に考えるべきかもしれない。それは、他の活字メディアにとっても、無縁の話ではないのである。

 日本では、言論の「自由」は擁護されるべき原則の第一であるけれども、それにも踏まえるべき「作法」がある。そうした「作法」を踏まえない言論は、実は至るところに盤踞(ばんきょ)している。筆者の場合、以下の三箇条が、その「作法」に当たる。

 一、 櫻田の文章は、「天皇陛下に奉呈する文書」として書く。要するに、「あっちこっちで言っていることが違うではないか」と詰問されて、答えられなくなるような文章は書かないということである。

 二、 櫻田の文章は、「櫻田」という名前を消しても、「誰が書いたかが判る文書」として書く。要するに、自分のネーム・ヴァリューに頼った言論は披露しないということである。フリードリッヒ・ニーチェが語ったように、「文章は自分の血で書け」である。

 三、 櫻田の文章は、特に政治評論の場合、「政治家に対する相応の敬意を払った文書」として書く。「踊る阿呆に観る阿呆」の言葉を借りれば、政治を実際に手掛ける「踊る阿呆」が偉いに決まっている。政治家を「賤業」の類として語る向きとは、絶対に関わらないということである。

 活字メディアが請け負うべきは、そうした「作法」を踏まえた諸々の言説を公論の場に送り出すプロデューサーとしての役割であろう。一つの論説の評価に際しては、「どのような中身の言説か」だけではなく「どのような姿勢で書かれた論説か」もまた、厳しく吟味されなければならない。然るに、当代の日本では、作家や思想家という肩書きを付けた人々が、特段の知見も持たずに「思い付き」で政治を語っている様子が見られるけれども、彼らの政治評論は、民主主義体制下では最も有害な類であろう。そうした類の言説は、民主主義という政治体制の「成熟」を妨げるものであるからである。活字メディアは、そうした安直な言説を淘汰しなければならないのである。

 新聞、雑誌のような活字メディアの役割は、決して終わっていない。