“問題児”の可能性


 米国映画『15時17分、パリ行き』をDVDで見た。監督のクリント・イーストウッドがフランスの高速鉄道内で実際に起きたテロ事件を題材に、犯人を取り押さえた米国人の若者3人を、本人役に起用して話題になった映画だ。

 作品に込められた監督のメッセージについては、鑑賞者それぞれに受け取り方があっていいが、筆者は、冒頭の場面がすべてを物語っていたように思った。主役の3人は中学時代からの友人同士。そのうちのスペンサーとアレクは、同じ小学校で共に問題児。進学を控え、彼らの母親たちがクラスでいじめられていると、学校に相談に行く。

 スペンサーは読むのが遅く、アレクはすぐ気が散ってしまうから、共に注意欠陥障害(ADD)ではないかと、教師は説明する。これに対して、母親は「結論を急ぎ過ぎではないか」と反論するが、教師は「集中させるためにさまざまな薬がある」と、服薬を勧めた。ついに、母親たちは「何かというと薬。これって適切な対応?」と反発して席を立ってしまうのだった。

 成長し軍人となったスペンサーとアレクは、もう1人の友人アンソニーと欧州旅行中に、イスラム過激派の男が銃を乱射する事件に遭遇。屈強なスペンサーは、ナイフで切り付けられて負傷しながらも、2人と協力して犯人を制圧した。大惨事を防いだ3人はフランス政府から勲章を授与され、英雄として称賛されたのだ。

 今、米国だけでなく日本でも、ADD・ADHD(注意欠陥多動性障害)と診断され、薬を服用する子供が増えている。服薬の必要な子供がいることは確かだろうが、問題もある。子供に安易に病名を付けて、教育ではなく薬で解決しようとする傾向が出ていることだ。

 前述のシーンを冒頭に持ってきたのは、手のかかる子供を病気にしてしまって、彼らの可能性を閉ざしてしまう風潮に対する監督の警鐘だったのだ。(森)