お盆の心象風景


 自宅から駅に向かう途中に地域のコミュニティーセンターがある。朝6時半、その広場で、子供たちがラジオ体操を始めていた。昔も今も変わらぬ夏休みの光景に、心が和み、自分の子供時代に思いを馳(は)せた。

 夏休みと言えば、多くの人は、開放感を思い浮かべるはず。登校せず、自由に遊べるのだから当然である。しかし、私の場合、ちょっと違っていた。もちろん開放感はあったが、それは表面的なもので、心の奥底には、はかなさや切なさにも似たセンチな情感がいつも潜んでいたのを思い出すのである。

 野山をかけずり回り、皮膚がふやけるほどに水遊びをしている子供が、なぜ哀切めいた感情を抱いていたのか。当時はまったく自覚はなかったが、大人になってから、それは毎年、夏休みのど真ん中でやってきたお盆に深く関連していたことに気付いた。

 当時の農家としては一般的なことで、取り立ててわが家が信心深かったということではないが、祖母や母は毎朝、仏前で手を合わせ、お経を唱えていた。お盆ともなれば、仏壇の前を提灯や精霊棚で飾ってご先祖様を迎えていた。今はもう行っていないが、迎え火や送り火も続けていた。

 そんなふうにして、お盆の行事を行う家庭環境で育った私は、誰かに特別に感化されたわけでもないのに、人の死について自然と関心を持ちはじめ、「命ってなんだろう」「生きる意味ってなんだろう」と考えるようになったのだ。

 今でも、眠そうな顔をしてラジオ体操をやっている子供たちの姿を見ると、子供時代のセンチな感情がよみがえってくるが、そこで考えるのは、命の尊厳や有限性は、教えられて理解できるものではないということ。命や死の意味は、仏様にあげられた線香の香り、鈴の音、そしてお盆などの行事を通して、日々の生活の中で感じ取るものなのだろう。(森)