「命」の教育


 肉親に不幸があった。葬儀の場で、私は初めて家族の死に接した時のことを思い出した。

 祖父が亡くなったのは、私が中学3年生の時だった。今は、ほとんどの人が病院で亡くなるが、祖父は家族や近所の人たちが見守る中、自宅で逝った。

 当時、故郷ではまだ野辺送りが行われていた。その行列は「カーン」「カーン」と、鐘を鳴らしながら進む。

 実家はお寺に近かったので、自宅にいると、もの悲しい鐘の音が時々聞こえてきた。遊んでいても「誰かが死んだのだな」と、子供心に切なくなった。

 そんな環境で育った私は思春期の真っ只中で、祖父の臨終の場に立ち会った。息が弱まりつつある祖父の枕元で、知人たちは「もう1回、息をしろ」「情けないぞ」と声を掛け続けたが、祖父は眠るように逝った。

 その時、私は思った。「命って、不思議だな」。目の前にある肉体は生前と何一つ変わらない。それなのに死んだのだという。

 息が止まると同時に、魂が抜け出たのだろうか、それとも、もともと魂は存在しないのだろうか。それは分からないにしても、人間はいつか死ぬのは確かである。それから、私は死について考えるようになり、本を読み始めた。

 あれからずいぶんと時間が経ったが、今回、新たに肉親の死に接して、娘(高校3年生)に声を掛けた。「命って、不思議だろう」と。娘は「うん!」と頷くだけだったが、何かを感じ取ったように見えた。

 若者による凄惨(せいさん)な事件が起きるたびに、命の教育の大切さが叫ばれる。しかし、命の重さとは感じ取るもので、他人が教えることができるものではない。

 人の死に接することのないまま成長する今の子供たちに必要なものは、命の不思議さや神秘を考えるきっかけで、その機会は身近にもある。それを生かそうとする大人の姿勢が問われているのだろう。(清)