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佐賀の乱(明治7年)は明治維新後の「不平…


 佐賀の乱(明治7年)は明治維新後の「不平士族の反乱」の一つだが、乱は145年前のきょう、勃発した。西郷隆盛の西南戦争の3年前のことだ。

 首謀者は江藤新平。明治政権の司法卿(法相)や参議として活躍したが、大久保利通らと対立、下野して佐賀へ帰郷していたのを乱の首領として担ぎ出されたものだ。

 それを心配してのことだったのだろう。江藤の帰郷には、同郷の大隈重信や土佐の板垣退助が強く反対した。危険を承知の上での帰郷だったとすれば、江藤の側にも強い思いがあったに違いない。

 果たして乱は一方的に敗北。江藤は佐賀を脱出し、3月1日に鹿児島で西郷と対面したが、西郷は支援を拒絶した。西郷としても「今、決起するわけにはいかない」と思ったのだろう。3月末に四国で逮捕され、4月13日に死刑判決を言い渡された。刑は即日執行され、晒(さら)し首にされた。厳刑を主導したのは、政敵の大久保だった。

 頭の回転が恐ろしく早かったと言われる江藤だが、どうやら統治者には向かなかったようだ。むしろ裁判官、検事、弁護士向き。ジャーナリストでもよかった。政治家であれば野党なら何とかなったかもしれないが、その時代はまだ、議会が存在していなかった。

 江藤への対応については、当時参議兼内務卿の大久保が終始関わっている。明治政権発足間もない段階で内乱を起こした江藤への強い憎悪の念もあったであろう。徳川家康並みの冷徹さが印象に残る。