永井荷風(1959年没)の日記「断腸亭日乗」…


 永井荷風(1959年没)の日記「断腸亭日乗」の昭和19(1944)年3月24日の部分にこんな記述があった。「開戦以来現代民衆の心情ほど解しがたきものはなし」というのがそれだ。太平洋戦争後期の記事で、日本の旗色がよくなかったころの話だ。

 それまでの職業を奪われ、職工として徴集されたり、空襲が近いと言われたりしても、特に騒ぐこともなく、何が起ころうともただ成り行きに任せるだけ。こうした民衆の在り方は理解不能ということのようだ。

 が、見ようによっては、むしろ荷風の方が理解不能だとも考えられる。戦争という重大事に、民衆や庶民は昔からこういう対し方をしてきたものなので、それを理解できないと断定する荷風の方が珍しいとも思われる。

 当時65歳で、兵隊にとられる可能性は皆無の中、荷風が何やら怒っているのが、今からすればほほ笑ましい。彼の心情があまりに純粋に表れているからだ。

 「自分は大衆とはハッキリ別者」と自覚した上で、エリート知識人としての自身をあからさまに見せているのが、率直でもあり荷風らしくもある。

 知識人である自身を少しも疑わないナイーブさも興味深い。「大衆とはそういうものなのか!?」という判断を自身の中に繰り込んで、自身の知識人性を顧みてもよかったのだが、こうした方向に向かう可能性は全くない。「それが荷風だ」とも思う半面、この文豪への物足りなさの感も禁じ得ないのだ。