今年は明治維新から150年。鳥羽伏見の戦い…


 今年は明治維新から150年。鳥羽伏見の戦いの後、東征軍は江戸を目指したが、勝海舟と西郷隆盛の談判によって江戸無血開城がなったことはよく知られている。

 とはいえ、迎え撃つ勝は和戦両様の構えだった。もし談判で合意が成らなかった場合、町火消しの頭、新門辰五郎や鳶職(とびしょく)などを手配して江戸の町を火の海にする焦土作戦も考えていた。勝にそういう肚(はら)があったから、新政府側が要求する徳川慶喜の処分を水戸謹慎で済ませることができた。

 この話は、後年勝が語ったことで、どこまで史実なのか確証はないらしい。しかし、そういうことがあったのではと思わせる史実もある。

 慶応4年旧暦の正月21日、日本橋・魚河岸の魚問屋の代表、相模屋武兵衛らが町奉行に呼び出されて「薩長の徒」が江戸に攻め下って来た時は「一致協力して防戦に努めよ」との沙汰書を渡された。

 武兵衛らは魚河岸で問屋、仲買の全員を集めて対応を協議した。最初みな黙っていたが、武兵衛が「ここ一番、魚河岸の威勢を見せてやろう」と訴えると、一同は江戸橋、日本橋で東征軍を食い止めることに決し、魚包丁、竹槍(たけやり)、鳶口などで武装して待ち受けた。

 結局、江戸無血開城決定で魚河岸防衛軍は解散。この時、魚河岸の兄い連は「なんだ、ツマラネーナー」と言ったという。以上は、近藤正弥著『魚河岸の記』(東京書房社刊)による。築地から豊洲へと受け継がれた魚河岸気質を物語る歴史秘話である。