16日亡くなった作曲家の船村徹さんは、東洋…


 16日亡くなった作曲家の船村徹さんは、東洋音楽学校(現東京音楽大学)で学んでいた時、親からの仕送りがなく、神田駅前で新聞売りのアルバイトをしたことがある。この時の仲間が後にヒット曲「別れの一本杉」を作詞した故高野公男だった。

 次にいわゆる流しの演歌師の助手となり、ギターを弾いた。受け持ち地域は新橋から京橋地域。大衆の心を歌う数々の名曲を世に送り出した船村さんの原点はこのあたりにあるようだ。後に渋谷の演歌師・ダイちゃんを北島三郎さんに育て上げたのも、自身が演歌師の苦労を知っていたからだろう。

 これら来歴は、作詞家の故星野哲郎の著書『歌、いとしきものよ』で知った。星野、北島さんとのトリオで生まれたのが「なみだ船」(昭和37年)だ。

 「東京だョおっ母さん」「王将」「矢切の渡し」など、それぞれ曲想はかなり異なる。しかしどれも歌詞の持つ情感とピタリと一致し、聴くたびに情景までもが浮かんでくるようだ。

 「初めに言葉ありき。曲は素晴らしい歌詞の脇役に過ぎない」が信条だった。「日本語を大事に作品を書きたい」と語っていた。船村作品は、日本語、大衆、演歌への愛の結晶と言っていい。

 船村さんにはフォーク調の名曲「宗谷岬」もあり、故吉田弘の詞と見事な融合を見せている。が、やはり神髄は演歌にある。NHKアナウンサーの「なぜ演歌にこだわるのか」との問いに、船村さんは答えている。「演歌は日本人のDNAです」