『伊勢物語』(第6段)に、駆け落ちした…


 『伊勢物語』(第6段)に、駆け落ちした男女のうちの女が鬼に食い殺される話が載っている。雷雨の中、2人は都から逃亡するが、川のほとりに1軒の蔵を見つけて入り込んだ。

 女を奥に入れて、男は戸口に立って警戒していたが、夜が明けると、女は鬼に食われてしまっていた。女は悲鳴を上げたのだが、その時激しい雷鳴がしたので、男は気付かなかった、という話だ。

 坂口安吾は「文学のふるさと」(昭和16年)というエッセーの中で、この話を紹介しながら、「むごたらしく、救いのない話」と指摘する。

 やっと逃れた女が、あっけなく鬼に食われてしまう。鬼の実在はともかく、要は人間世界の理不尽ということなのだろうが、むしろこうした救いのなさこそが「文学のふるさと(出発点)」だというのがこのエッセーの趣旨でもあり、安吾文学の立脚点でもあったと思えてくる。

 女が食い殺されるのは「仕方がない」でもなく、「当然だ」でもなく、「不当だ」というのでもない。こうした悲劇が現実に起こってしまうようにどうやら人間世界はできている。そこに目を向けるところから全てが始まる、と安吾は言いたかったのだろう。

 80年近く前に書かれたこのエッセーが、今でも読むに堪えるのが驚きだ。その安吾が亡くなったのが、昭和30年のきょう。享年48。死因は脳溢血(いっけつ)だったが、酒と睡眠薬の常習者でもあった。無頼派と呼ばれた作家だったが、それにしても若過ぎる。