「信心に末法はなし初不動」(山口笙堂)…


 「信心に末法はなし初不動」(山口笙堂)。俳句の歳時記で1月は「初」という語が付く季語が多い。もちろん「初鰹(はつがつお)」のように夏の季語もあるが、ほとんどは1月。その最後を飾るのが「初大師」「初天神」「初不動」。

 大師は弘法大師(空海)、天神は菅原道真を祭っているが、不動は「五大明王の一、大日如来の化身で、一切の悪魔、煩悩を降伏させるため火炎を背負ひ、剣と縄を手にして忿怒の相をしている。これは、知恵の火に住み、衆生済度の決意を象徴したもの」(稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』)とある。

 「初」が使われる背景には、何事も最初が肝心ということがあるだろう。1年の新しい決意を込めた語である。ただ1月も終わりに近づくと、1年の目標とした事柄を忘れがちになる。初心に帰るためにも、季語の意味をかみしめたい。

 この頃は少しずつ日が伸びていくので「日脚伸ぶ」という季語が使われる。日の脚が伸びるというのは、いかにも詩的な表現である。伝統的な表現には、こうした擬人的なものが少なくない。

 春に向かっているのが、光や空気、花などの様子で分かる。詩歌の土壌にあるのは、日本人の自然に対する繊細な感覚や表現の豊かさと言っていい。

 1991年のきょうは『天平の甍』や『敦煌』などの小説を書いた作家・井上靖が亡くなった日。ノーベル文学賞候補にも挙げられたが、今では忘れ去られつつある作家の一人でもある。